<映画 ラストプリンセス ポスター>
第2章 3節 近代-⑦ 三一独立運動と臨政
朝鮮の植民地時代については
従来の「植民地収奪論」に加え現在の韓国や台湾の経済発展を踏まえ
「植民地近代化論」がニューライト層などから提示され日本の歴史修正主義とも共鳴し頭をもたげています。
これについて深く触れる余裕は有りませんが、
日本が当初の目的である初期資本蓄積と商品市場開拓を進める上で、また後の資本主義産業発達の一部分を担わせる上で朝鮮の社会構造を資本主義的に変化させる事は必然であり、よってそれ以上でもそれ以下でも無いと言えます。
つまりは日本が日本自身の為に朝鮮の半資本主義化を必要としたと言う事ですね。
<今は解体された旧総督府 庁舎>
日韓併合後日本は、まずそれまでの統監部(통감부)を総督府(총독부)に改め総督政治を行いました。
憲兵警察制度を導入して、朝鮮人を徹底的に取り締まりました。
日本軍も増加し少しでも不穏な動きが有れば圧力を掛ける体制を整えました。
1912年から行った土地調査事業は近代的権利関係の始まりとなりました。
最近の研究では従来の土地収奪と言うイメージは誤りで、日本式の近代的土地所有権を移植した事により土地が売買の対象となり資産として流動化した反面、朝鮮で伝統的に強い権利であった耕作権(小作権)が否定され小作農民が不安定な位置に置かれ、日本人の土地買い入れにより離農、離散して行った事を結果として挙げています。
その他に会社令、朝鮮教育令等日本式制度が取り入られました。
しかし武断統治の反感は強く、ついに併合以降最大の人民蜂起が起こりました。
それが1919年の三一独立運動です。
<三一独立運動に集まった群衆>
朝鮮は1914年から1918年までの第一次世界大戦とは無縁でしたが、戦後のベルサイユ体制と関連しロシア•レーニンの民族自決主義と特にアメリカ•ウィルソンの民族自決論に影響を受け独立を目指したのです。
折しも日本によって強制退位させられた前皇帝高宗が崩御し、日本に毒殺されたとの噂が流れた事は植民地支配に憤っていた人民を奮い立たせるには充分で、国葬の3月3日の手前3月1日にデモが計画されました。
<朝鮮のジャンヌダルク リュグァンスン(柳寬順)>
先のウィルソン民族自決論はあくまでも敗戦国の植民地を奪う目的だったので、戦勝国日本の植民地に独立を与える筈は無く幻想に過ぎませんでした。
この人民蜂起は指導層である民族主義者の戦略〜外交と非暴力で請願の方法にて朝鮮の独立を達成しようとする考え〜の甘さの為、指導者不在で繰り広げられ各地で分散的行動になってしまいました。
2カ月の間凡そ200万人以上が参加しましたが逮捕者4万人以上、死者7千人以上の大弾圧を受け鎮圧されました。
しかし世界に朝鮮の存在を強く訴える事になり、中国の五四運動などに影響を与えました。
なにより日本の植民地統治を武断統治から文化統治に変更させる契機となりました。
↓3.1運動と柳寛順の記事はコチラ↓
こうしたナショナリズムの高揚の中で民族運動が活性化し各地に独立団体が作られます。
そして紆余曲折を経て上海に大韓民国臨時政府(臨政림정)が作られました。
しかし当初から派閥争いが続き弱体化し、朝鮮独立の中心勢力となる事は有りませんでした。
<大韓民国臨時政府 閣僚>
この時期のお話として、旧韓国皇女が独立運動家に?とかなりのフィクションですが、ソンイェジン主演の映画「ラスト・プリンセス」が彼女の熱演も有り見ものです。
またパラサイトで有名なソンガンホ、トッケビのコンユ主演の映画「密偵(밀정)」も上海を舞台にしたこの時期の状況をスリリングなエンターテインメントに仕上げ好評でした。
<映画 密偵 ポスター>
満洲に舞台を移した義兵は独立軍として闘争を繰り広げました。
一部は臨政と合流し、一部は延安にて中国共産党と共闘、また一部は満洲と沿海州にて活動。
金佐鎭キムジャジン(김좌진)将軍をはじめとする青山里(청산리)戦闘, 洪範図ホンボムド(홍범도)部隊の鳳梧洞(봉오동)戦闘が有名です。
余談ですが、洪範図(홍범도)将軍の映像がロシアで発掘、公開された事がニュースになった事を、
当ブログでも記事にしました。
↓↓ご覧になる方はコチラ↓↓↓
1910年代〜1920年代は民族主義者の活動が主流でしたが、
1930年代に入り満洲事変によって日本の満洲侵略が本格化すると
中国解放勢力と力を合わせた共産主義者の活動が主流となって行きます。
↓↓お好きな時代へはコチラから↓↓↓
<参考文献>
山川出版社 世界歴史体系 朝鮮史2
山川出版社 朝鮮現代史
朝鮮史研究会編 朝鮮の歴史