6章 朝鮮の人物-65  現代1
洪範図ホンボムドと金佐鎮キムジャジン
 
 
 
6月7日は韓国で有名なポンオドン鳳梧洞戦闘記念日です。
後述しますが、この戦闘はチョンサンリ青山里戦闘と合わせ独立軍の戦いに於ける最大の戦闘と言え、長い事韓国国民の精神的支柱になって来ました。
敵味方の戦闘結果の齟齬が大きい戦闘の代表とも言えますが、今後日韓両国で実証的な交叉検証が進む事を期待しながら、リライトの言葉とさせて頂きます。
以下は発表時の記事になります。
 
さあ、いよいよ今回から現代史の人物スタートです。
近代も評価が難しく書くのが困難でしたが、現代は尚難しいです。
あまつさえ国が2つに分裂して居るので…
 
 
このブログで私を知って頂いた方は薄々分かって頂いてるかも知れませんが、私は元々お茶を濁したり「逃げ」が好きでは有りません。
 
どちらかと言うと正面突破が好きなんです(笑)。
逃げも隠れもせず、いつでも打って出てやると思って居るのです。
言葉を変えれば要領が悪いと言えます。
 
駄目で元々の玉砕精神です。
 
なのでタブーにも挑戦します。
そもそも何事も良いか悪いかなんて長い長い時間が経たないと評価出来ません。
それなら、今の自分の状況から判断して取り組むしか有りません。
 
 
現代史では金日成、金正日、朴憲永、金九、呂運用、李承晩、朴正煕など普段南北双方から偏向的、断片的にしか語られる事の少ない人物を扱います。
それとチョンテイル、パクチョンチョル、イハンリョルなどです。
 
史料の限界は有りますが、私の掲げる『統一史観』から現代史人物をなるだけ公平に、俯瞰的に見たいと思います。
 
良く言われる様に『歴史は現代史』です。
歴史ロマンは殆ど皆無に近い(?)ですが、歴史を学び考える上で歴史的な教訓を1番得られます。
私も書きながら自分の歩んで来た半生も見つめ直して見たいと思います。
 
それにしても自分の思いを語れる場が有るって幸せです。
まずはこのブログ記事を読んで下さって居る皆様に感謝を捧げたいです。
本当に有り難う御座います♪
 
まず初めはホンボムド洪範図
有名な独立軍の将軍です。
 
 
以前(‘20.10.23)KBSニュースで、旧韓末から植民地時代にかけ義兵や独立軍として活躍したホンボムド洪範図将軍の映像が初めて発掘されたとのニュースが有り、急遽記事を書きましたが、その記事を再編集して書きました。
 
地主の下で貧しい小作をしていた家に生まれ不遇の子供時代を送りました。
洪範図が生まれると直ぐ母が産後の後遺症で亡くなり、小作していた父も9歳の時に世を去りました。
 
幼い洪範図は、自分のルーツさえ知らぬまま小作として育ちました。
 
10代半ばの1883年小作を清算して、人生を変えようと平壌監営に入隊しますが、劣悪な軍隊の待遇に我慢出来ず離隊します。
 
その後金剛山の寺社に出家し文字と歴史を習い尼僧だった妻と結婚します。
 
<映画より>
 
その後抗日闘争路線一筋を歩いた洪範図自身にとって人生のターニングポイントとなったと言えるでしょう。
 
その後、黄海道で製紙場で働くも労働争議により移住、江原道山岳地帯で鹿、キバノロ、イノシシなどを狩猟する狩人生活をしました。
 
1895年明成皇后を弑害した乙未事変をキッカケに巻き起こった乙未義兵発生直後、彼も江原道で義兵活動を開始、狩人として磨いた射撃術で日本軍と戦いました。
 
当時彼らの義兵は14人と伝えられ、ほとんど一緒に狩り仕事をしていた江原道の狩人だったそうです。
 
この時代彼は文字通り伝説の名射撃手でした。
日本軍10人を射殺したとする伝説も伝わります。
 
北上した柳麟錫の義兵隊と連携して日本軍と戦いましたが、1896年以降義兵の勢いが衰えると洪範図も義兵を解体して帰郷し、再び山で狩人生活を始めました。
 
 
1907年ハーグ密使事件による高宗の強制退位と朝鮮軍隊解散をキッカケに丁未義兵が盛り上がり、日本が国内の狩人を対象に銃砲と火薬類取締令に基づいて強制的に銃回収を行い狩人の生計まで奪うと、咸鏡道甲山一帯の狩人たちを集め再決起します。
 
洪範図義兵部隊は最大600人〜700人に達する義兵隊を率いて、主に咸鏡道と江原道北部を舞台に遊撃戦を繰り広げました。
 
この時期日本の憲兵隊と陸軍正規部隊を相手に、大小37回の戦闘を行ったと言われて居ます。
 
1908年4月日本に捕まった妻がひどい拷問により獄死し、長男も父親と一緒に戦って戦死、次男も父親と一緒に沿海州に移住して義兵活動をし、その後結核で病死して居ます。
 
 
1910年朝鮮併合により義兵運動を続ける条件が決定的に悪化して行き、ドラマミスターサンシャインにも描かれて居ますが、この時期国内の武装独立闘争団体の一般的な潮流は満洲やロシア沿海州への拠点移動でした。
 
彼も1911年沿海州に亡命、ウラジオストクを拠点に遊撃戦を行い後日共産主義独立運動団体と縁を結ぶ事になります。
 
1917年ロシア10月革命により史上初の社会主義政権が成立しますが、第一次世界対戦以降本格的に革命阻止の為に国際干渉軍がロシアに進駐しシベリア内線が没発しました。
 
 
日本軍はいち早く沿海州に進駐しましたが、この機会に乗じて洪範図部隊を含む沿海州地方を本拠地とする朝鮮武装独立運動団体を掃討しようと躍起になりました。
 
これに対し、朝鮮武装独立運動団体は積極的な交戦を繰り広げると同時にロシア共産軍と手を握る方向に動きました。
 
咸鏡北道に数回進出、1919年10月恵山一帯でも大きく戦果を挙げた洪範図は一躍知名度を上げ、1920年ポンオドン鳳梧洞一帯で武装独立運動団体が連合した大韓独路軍第1軍司令部長(副司令官)に選出されました。
 
1920年6月有名なポンオドン鳳梧洞戦闘で盆地の地形を利用して、追撃して来た日本軍300人弱を待ち伏せする戦術で追い払う戦果を挙げました。
 
10月にはこれまた韓国で有名なチョンサンリ青山里戦闘で、韓国で独立軍のアイコンとして多大な尊敬を受けて居るキムジャジン金佐鎭将軍と共に活躍しました。
 
ここで金佐鎭キム・ジャジンについて語ります。
 
 
彼は忠清南道洪城郡出身で、名門リャンバン両班家の次男として生まれ、実質長男の役割を務めました。
3歳の時に父親を亡くしますが経済的には問題も無く母親から厳格な教育を受けて成長しました。
 
勇猛さで名を鳴らし、1905年大韓帝国陸軍武官学校に入学しますが、1907年の朝鮮軍隊が解散されると弱冠17歳で奴婢を解放させ田畑を配って、自分の家に学校を立てるなどの啓蒙家的な活動を行いました。
 
抗日運動を行いますが、1911年親戚に欺かれ日本の警察に捕まって西大門刑務所に2年6ヶ月収監されます。
 
1918年満州に亡命、義兵を起こし大韓光復会副司令官を務めました。
 
光復会瓦解後、北間島地方に渡って北路軍政署を率い1920年チョンサンリ青山里戦闘で独立軍の連合部隊を率いて戦果を挙げました。
 
<ドラマ 野人時代より>
 
尚、チョンサンリ戦闘は反共を国是として居た韓国で、金日成を始めとした共産遊撃隊活動への対立角として独立軍をクローズアップした結果『青山里大捷(大勝利)』と呼ばれて過大評価されておりましたが、2000年代以降の研究により日本軍の殺傷者はさほど多く無く、独立軍がロシア領への退却をスムーズに行う上で助力になった戦闘と位置付けられて来て居ます。
 
実際、真の敵我間の被害が正確に掴め切れて無い面が有り、今後の更なる研究が待たれて居ます。
 
しかし、この戦闘は独立軍の重要なアイコンとして長らく機能し、彼の名声も轟きました。
 
彼はこの様に幾たび日本軍と交戦して功績を立てました。
以後北に移動している途中再び南に降りて来た時、北に進んだ軍隊が1921年ロシア共産軍に鎮圧される事件(自由市惨変)が発生、彼は反共路線に向かいます。
 
 
金佐鎮は不毛の地に等しい満州で再起し、韓族総連合会主席に任命されるなど満州の独立運動の指導者として活躍しました。
1925年新民府、1929年韓族総連合会などを創設し活動しますが、共産主義を排除しアナーキズムに傾倒した結果、恨みを買います。
 
1930年1月共産主義者パクサンシル朴相実によって41歳の若さで暗殺されました。
 
遺言で「する事が...する事が余りにも多く残るこの時に私が死ななければならないなんて… 。
それが悔しく...」
という言葉を残したと言います。
 
 
ちなみに金佐鎮を殺害した共産党員バクサンシルは間もなく地元警察に逮捕され独立運動家を殺した容疑で奉天に移送され、死刑に処されて居ます。
 
さて洪範図に戻りましょう。
彼も青山里戦闘の主導的な人物として知られて居ますが、最終的にソ連と手を握ったという点から韓国では1980年代後半まで洪範図の話がほとんど出ず、簡単に言及のみとなって居ました。
共和国の教科書で必ず言及されるのとは正反対で、逆に金佐鎮が共和国で一切言及されないのと一脈通じて居ました。
 
斯(か)く言う私も金佐鎮将軍の存在を知ったのは社会人になってからです。
 
実際には青山里戦闘洪範図部隊の方が主導したと見られるそうです。
 
 
しかし、洪範図もその後の日本軍の討伐と満州軍閥の派閥争いに巻き込まれ、やむを得ずソ連領内に脱出するしか術(すべ)が有りませんでした。
 
1921年沿海州とシベリアに後退した独立軍は最終的にソ連の支援を受け、洪範図はこれまでの武勲で大韓独立軍副総裁に就任しました。
 
しかし1922年日本の沿海州干渉戦よりの撤退を条件に日本が要求した抗日武装闘争団体の解散が行われ、最終的に洪範図以下共産党傘下独立軍は武装解除されました。
 
他の同僚は上海の臨政に参加したり他の地方に散らばりましたが、帰る場所も家族も居ない洪範図は最終的にロシアに残ってソ連市民として生活を始め、この時に再婚して居ます。
 
1922年2月モスクワコミンテルン主催で開かれた極東民族大会(極東被抑圧人民大会や極東弱小民族大会)に参加する為、モスクワに行った洪範図はレーニンとも単独面談をして贈り物を受け取って居ます。
 
 
彼はこれまでの武勲で得られた人望に支えられ、1923年沿海州南部で朝鮮人コルホーズの指導者となり、1927年ソ連共産党に正式に入党しました。
 
以降、沿海州に在住する高麗人の指導者の一人として積極的に活動しますが、1937年スターリンによって行われた高麗人強制移住政策により当時のソ連領土で現在のカザフスタンに強制移住させられます。
 
以後高麗劇場の守衛長として仕事し、年金生活を送りました。
独立運動家としての活躍を基に演劇『洪範図』が上映される栄誉を受けます。
 
 
1941年6月第二次世界大戦が勃発した際には新聞「レーニン旗」に投稿するなど政府のプロパガンダとして活躍、1942年からは精米所の労働者を務め1943年10月老衰で死去しました。
多くの革命家が壮絶な生を終えたのと違い、晩年は穏やかに過ごしたと言えるでしょう。
 
先にも述べましたが、2020年10月23日のKBSニュースでホンボムド洪範図将軍の映像が初めて発掘されたとのニュースが有りました。
動画で姿が見られます。
 
2021年8月15日に、韓国に遺骸が帰国するとのニュースが流れました。
ユン・ソクヨル政権になり2023年、彼の胸像を陸軍士官学校から撤去すべきだと言う論争に巻き込まれました。
この様な論議を彼はさぞや草葉の陰から苦々しく思って居る事でしょう。
 
 
独立運動右派(民族主義者)が主流でしたが1930年代には下火に陥り、左派(共産主義者)が主流の抗日革命軍の活動が活発になって行きます。
彼はその中間的な位置に存在したと言えるでしょう。
 
 ↓韓国帰還のニュース記事
 
<参考文献>
KBSニュース
나무위키 
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#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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