<映画 リュグァンスン柳寛順>
 
6章 朝鮮の人物64 近代15
柳寛順リュグァンスン
 
 
 
3月1日は『3.1独立運動』記念日です。
韓国では公休日となって居ます。
朝鮮の近代人物最終回として3.1独立運動『朝鮮のジャンヌダルク』柳寛順について述べたいと思います。
 
1910年に韓国が日帝によって強制的に併呑された後、朝鮮総督府は強力な『武断統治』を強行して過酷な弾圧を行う一方、民族固有の文化を抹殺、経済的支配の徹底化なと朝鮮の民族的抵抗のベースを無くそうとしました。
 
<植民地 武断統治>
 
朝鮮の独立運動家たちは日本の不当な侵略と支配に抵抗して全国各地で独立運動を繰り広げ、中国・満州・ロシア・アメリカなど海外に亡命して独立運動を展開したり秘密結社を組織して、地下に隠れて独立達成のチャンスを待ちました。
 
折りしも1914年に始まり1917年のロシア革命と1918年のドイツ革命により終了した第1次世界大戦の戦後処理の中で米国の大統領ウィルソン(Wilson)が民族自決主義の原則を発表し波紋を呼びました。
 
<アメリカ大統領 ウィルソン>
 
民族自決主義は、第1次世界大戦の戦後処理の原則14条項の一部として1918年1月に提起されましたが、ウィルソンの提唱する民族自決主義の原則とは「連合国」と対決したドイツ、オーストリア、トルコなど「同盟国」の植民地を奪い上げ、自己の影響下に置こうとする偽善的な主張でした。
 
しかしこの原則は彼の意図を離れ、全ての被圧迫民族に福音の様に刷り込まれ、自国独立の希望に写りました。
 
朝鮮の民族主義指導者たちもウィルソンの民族自決主義の発表を知り、これに基づいて民族の独立を訴え認めてもらおうと画策します。
 
 
これに最も敏感な反応を見せたのは在米朝鮮人たちで、彼らは在米朝鮮人代表者会議を招集、李承晩・閔瓚鎬・鄭翰景などを朝鮮代表として選出してパリ講和会議にて朝鮮独立を訴えようとするも米国政府がパスポートを出さず失敗します。
 
このニュースは、東京で発刊されている朝日新聞などに報道され、在日本朝鮮留学生学友会は大きな刺激を受けました。
中国に亡命した独立運動家たちは上海でこの報に際し、金奎植、張徳秀、呂運亨をそれぞれ派遣して同様の請願をします。
 
このような国外の事情とは異なり、国内ではウィルソンの民族自決主義の思想が日本の意図的な隠蔽によりさほど知られていませんでしたが、在日・在米・在中の同胞、留学生の活動などを通じて次第に知られ、国内でも徐々に独立運動の雰囲気が醸成されます。
 
<東京2.8独立宣言メンバー>
 
これに直接火を付けたのは日本東京で行われた
『2・8独立宣言』でした。
当時東京には朝鮮人留学生による朝鮮キリスト教青年会・朝鮮留学生学友会・朝鮮学会・朝鮮女性懇親会などの愛国団体が多数有り、愛国思想鼓吹のために尽力して居ました。
 
1912年10月東京に在留する留学生を会員とする抗日独立団体、朝鮮留学生学友会が結成され、頻繁に弁論会・討論会などを開催し、「学之光」という雑誌を発刊して抗日思想を鼓吹しました。
彼らは新聞で在米同胞の活動と状況が報道されると、1919年1月6日、朝鮮キリスト教青年弁論大会を開催し、民族自決主義の原則に基づいて朝鮮の独立を請願する事を決議しました。
 
また実行委員にチェパルヨン崔八鏞・ソンゲベク宋繼白など10人を選出、秘密の会合を重ね、朝鮮青年独立団を組織して、民族大会招集請願と宣言と決議文を作成しました。
 
 
一方、彼らはチェグンオなどを国内に秘密裡に送り、チェリン崔麟・ソンジンウ宋鎭禹などと接触して国内でも独立運動を起こす事を求めます。
同時に独立宣言などを準備、ついに1919年2月8日午前10時、朝鮮の独立の必然性と正当性を明らかにした独立宣言書を各国大使・公使、日本政府要員、貴族院・衆議院両院議員、朝鮮総督、新聞社、雑誌社と複数の学者たちに郵送しました。
 
この日キリスト教青年会館でペクグァンスが朝鮮青年独立団の名前で代表者たちが署名した独立宣言書を朗読してキム・ドヨンが決議文を朗読すると、場内は独立万歳の声と歓声で溢れました。
独立宣言式が終わる頃、東京警視庁が会場を包囲して場内に進入して留学生と衝突、修羅場となりました。
10人の代表は日本の警察により逮捕。
参加した留学生は全員が帰国を決意し、国内に戻り3月1日の民族挙げての独立万歳運動に合流する事になります。
 
<政治犯収容の西大門刑務所>
 
この朝鮮青年独立団の「2・8独立宣言」は、朝鮮の青年学徒たちが日本の首都東京で独立を宣言したという点、国内での3・1運動の先導的役割を果たしたと言う点で大きな意義が有ったと言えるでしょう。
 
こうして国内でも独立運動の雰囲気が高まって居た時、前皇帝高宗が突然崩御しました。
高宗は当時68歳でしたが健康だったので、突然の訃報発表に国民は毒殺の疑いを抱きます。
 
1910年の国権喪失以来、独立運動の機会を探して居た民族主義の指導者達はウィルソンの民族自決主義、在日留学生の2・8独立宣言、高宗の逝去などの重なった今が民族の独立を掴む最良の機会と判断し、民族挙げての「3・1独立万歳運動」を本格的に計画する様になりました。
 
 
初めは様々な団体それぞれが独立万歳運動の推進計画を立てましたが、後には民族を挙げて一元化された独立運動の為に互いに統合する事になりました。
 
実践方法として宣言を発表し、国民世論を喚起させ、日本政府と貴族院・衆議院両院と朝鮮総督に国権を返す要求書を送り、アメリカ大統領とパリ講和会議に独立請願書を提出して、国際世論が日本に圧力をかけ独立を達成する事を目指しました。
 
彼らは天道教・キリスト教・仏教・儒教など各教団が共闘、大韓帝国時代の有志を民族代表に推戴、署名する人物を分担して交渉を重ねます。
 
彼らは高宗の突然の崩御で排日感情がピークに達している『今』を利用する事が有効であると判断して、各団体との交渉の末に中央執行部を一本化、これにより天道教・キリスト教・仏教・学生層の個々の独立運動推進計画が統合され、独立宣言に署名する民族代表33人も決定しました。
 
宣言は崔南善が作成、2万1000枚を印刷し、挙行は高宗の国葬の2日前で有る3月1日に決定されました。
12時を合図に各都市で一斉に独立宣言がなされる予定でした。
 
<民族代表33人>
 
しかし、3月1日正午ソウルタプコル塔洞公園(パゴダ公園)で待つ青年、民衆たちの前に彼らは現れませんでした。
民衆の力と日本の圧力を恐れた彼ら民族代表33人は、ソウル仁寺洞テファグァン泰華館に集まって独立宣言を午後2時を待ち朗読、朝鮮総督府に電話を掛けて民族代表一同がここにて独立宣言式を挙行して祝杯を挙げて居ると通告したのです。
 
この通告を受けた日本警察80人余りがすぐに駆けつけテファグァンを包囲、連行しました。
 
 
この裏切り行為にタプコル塔洞公圓での独立宣言式を待っていたソウルの中等学校以上の男女生徒4,000~5,000人は午後2時になると彼ら自らが登壇、独立宣言を朗読しました。
独立宣言の朗読が終わると学生たちは帽子を空に飛ばし「独立万歳」を叫び、鍾路に向かって飛び出してデモ行進に入ります。
タプコル公園を出る時には数万の群衆が呼応、一緒にデモ行進を展開しました。
 
デモ隊列は大漢門の前から1隊は米国領事館に、もう1隊列は南大門を経て日本総督府に向かい、それが各洞に広がって夕暮れからは郊外に広がりましたが、デモ群衆は秩序を維持し一件の暴力事件も発生しませんでした。
しかし、日本軍と警察は武力阻止を決行、平和的デモをしていた群衆を強制的に解散させ首謀者130人余りを逮捕、拘禁しました。
 
 
3月1日に独立万歳運動はソウル以外にもピョンヤン・鎮南浦・安州・義州・元山などで似たような形の独立宣言式と万歳デモ運動が展開され、特にピョンヤンはソウルの上記の事情により、図らずも国内最初の名誉を担う事になりました。
共和国の歴史書記載はこの事実に基づいて居ます。
 
この様に3月1日に点火された独立万歳運動の炎は日増しに全国各地に広がって行き、ソウル平安南道・平安北道・咸鏡南道のデモに続き、2日には京畿道開城、3日には忠清南道の礼山などで熾烈に展開されました。
 
その他4日には全羅北道、8日に慶尚北道、10日には全羅南道江原道、咸鏡北道、11日は慶尚南道とそれぞれ各地に広がって行き、3月19日に忠清北道、3月21日には済州島まで波及する事で全国13道まんべんなく3・1運動の隊列に乗り出す事になり、朝鮮史上最大の民族運動へと発展しました。
 

 

このような民族的決起の規模を確実に知る道は有りませんが、運動回数は2,000回以上、参加人数は200万人を超えると推定されて居ます。
 
犠牲者が最も多く発生したのは29人が銃剣で死んだり焼かれて死んだ水原市堤岩里事件でした。
 
日本側の資料を元にしても大略 死亡者7,500余人、負傷者 15,961人、拘禁者46,948人と言われて居ます。
 
この中で最も有名な少女リュグァンスン柳寛順を紹介します。
 
 <拷問される前の顔をデジタル復元>
 
彼女は1902年忠清南道ウォンドン面で次女として生まれました。
宣教師の勧めでソウル梨花学堂に編入、当時梨花学堂は殆どの学生が寮生活をする学校であり、家が遠い柳寛順も同様でした。
 
在学中、校内の学生自治団体「以文会」で活動して居ます。
 
柳寛順梨花学堂高等科1年生に進級した1919年3.1独立運動が没発。
校長は学生の安全を心配して参加を止めますが、学生たちは塀を乗り越えて参加しました。
 
この影響で1919年3月10日に学校に休校令が下され、梨花学堂に通って居た従姉妹と一緒に故郷の天安に戻り運動を組織・参加しました。
 
 
彼女は故郷のアウネ(地名)でデモを組織、周囲を率いてデモ運動を主導しましたが、4月1日、日本の手先の親日派によって逮捕され西大門刑務所に連行されました。
 
運動中、柳寛順の親も殺され、彼女自身も地裁で5年刑を求刑さました。
これは裁判時、「再び独立運動をせずに大日本帝国の臣民として生きて行く事を誓うか?」
とする裁判長の質問に柳寛順が
「私は日本なんかに屈服しない!
いつかお前たちは天罰を受けて必ず滅びるであろう!」と椅子を投げましたが、これが法廷冒涜罪にあたるとされ増刑されたのです。
 
 
彼女は監獄に収監された後、獄中でも独立万歳を呼びました。
しかし、柳寛順は最終的に1920年9月28日にひどい拷問に勝てず享年17歳の幼い年齢で獄死しました。
 
どの位拷問が残酷だったかを示す話しとして、梨花学堂で遺体の返還を要求した際、当初刑務所が拒否する程死体が深刻な状況だったと言います。
 
最近明らかになった所では柳寛順は獄死では無く、日本憲兵に杖殺(鞭打ちによる死亡)されたとの研究が有ります。
しかし拷問で死んだのか、拷問の後遺症で死んだのか、別に殺したのかは不明なままです。
 
 
彼女の悲劇性から俗に、フランスとイギリスの百年戦争でフランスを勝利に導いて犠牲になったオルレアンの少女ジャンヌダルクと比肩し、「朝鮮のジャンヌダルク」と呼ばれます。
 
柳寛順が天安アウネ万歳運動を計画、実行はしましたが、現在の名声は後世の人々が3.1運動のアイコン的な存在として彼女を名指しして、その価値を引き上げたおかげと見るのが正しいでしょう。
 
 
実際、当代の公判記録を見ると、他の人が実質的な主導者と出て来ます。
しかし、17歳の少女が運動を扇動し勇敢に戦った上、壮烈に犠牲になった姿は我々の胸を掻きむしらざるを得ません。
 
彼女についてはドラマ、映画で度々描かれて居ます。
最近では2019年に映画「抗拒 柳寛順」が公開、ヒットしました。
 
この様に朝鮮全土を巻き込み3.1独立運動は展開され鎮圧されました。
 
<大韓民国臨時政府>
 
この闘いは全世界に日本の支配の不当性と朝鮮の独立の意志を再確認させ、その後の日本の総督府支配を『武断統治』から『文化統治』に転換させるキッカケとなりそして「大韓民国臨時政府」(臨政)の結成をはじめ、独立運動の活発化に繋がるなど多くの意義が有りましたが、一方で歴史に深刻な教訓を多く残しました。
 
最大の教訓は日和見主義的な民族主義者たちが独立運動の主役を担う事が、これ以上不可能で有るとの限界を示したと言う事です。
その様な意味でこの3.1独立運動はその後の独立運動との分水嶺となり、その後ロシア革命の影響を受けて、共産主義者による共産党活動、抗日遊撃戦などに発展して行きます。
 
 
そして、民族主義運動と共産主義運動の亀裂が露わになり、主義思想による我が国の呼称「韓国」「朝鮮」の分裂にも繋がる訳ですが、それは1945年解放後の話しです。
 
この3.1独立運動を境に我が国の歴史は現代史に突入します。
韓国と共和国で時代区分に差異が有るので1919年〜1945年は近代と現代の過渡期と呼んでも良いでしょう。
 
次回から現代史人物の紹介に入ります。
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
나무위키
 

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