第1章 名前の由来-2.韓国の語源について
韓国の語源について語りたいと思います。
最近はウリハッキョ朝鮮学校出身者でもアレルギーが無くなり、本国の威信と共にむしろ積極的に使用する事が多くなって来た「韓国」の呼称はいつからどう言う経緯で成ったのでしょう。
まず語源は大きい、ひとつを表す朝鮮語「ハン」から来ていると言われます。
またモンゴルなどの汗(ハーン:王)などとも通じて居ます。
これは古代朝鮮の3つの種族-イェ穢、メク貊、ハン韓族の名称でも有りました。
「韓」の訓読みが元々「カラ」だったとの説も存在します。
三韓の内、弁韓がその後伽耶諸国に移行しますが、伽耶の当時の読みは「カラ(加羅、伽羅など)」だった事が知られて居ます。
日本語で「韓」の訓読みが「カラ」である事もココに由来すると言います。
紀元前より南部に馬韓、辰韓、弁韓の三国が興り、合わせて三韓と呼ばれました。
その後、高句麗、百済、新羅の三国が興ると転じて国全体を『サムハン三韓』とも呼ぶ様になり、朝鮮の別称となりました。
<ドラマ太祖王建
渤海と後期新羅の並立時代を過ぎ、後期新羅が高麗、新羅、後百済の三国に分裂し後三国(후삼국)となりますが、この事も我が国を三韓と記憶させるに充分だった筈です。
この時期も同じく三韓と称されたワケです。
特に新羅の統一戦争が民族を不幸に陥れた不完全な統合(領土拡張)に終わったのと違い、高麗によって自主的かつ合理的に統一された事は民族の誇るべき伝統として長らく馬韓(高麗)による「三韓一統」(삼한일통)と記憶されました。
ドラマ『太祖王建テジョワンゴン』は国民的俳優で時代劇の申し子チェスジョン(최수종)主演で大ヒットしましたが、正にドラマに打ってつけな歴史と言えるでしょう。
時は過ぎ1897年、朝鮮王朝の国王コジョン高宗(고종)は避難先のロシア公使館から王宮に帰還し、何とか国体を保ちたいと「大韓帝国」と国号を変更し皇帝を名乗りました。
帝国を宣言した訳です。
↓↓この頃の空気はコチラでどうぞ↓
何故大韓だったかと言うと、当時欧米列強に帝国の呼称を反対された為、根拠として『高麗が新羅と後百済を併合した故事(三韓一統)』を採ったのです。
<映画 帰らざる密使>
中国しか名乗れなかった1文字の国号(韓)と言うのもお気に召した模様です。
これが旧韓国(旧韓末)の始まりで、朝鮮は韓国とも呼ばれる様になりました。
この時期を知るのにドラマ「ミスターサンシャイン」が白眉です。
しかし、『皇帝と言う権力』のみを欲した高宗コジョンは「近代的な立憲君主国」の建設を望む民間の欲求には見向きもせず「専制君主国」に固執し議会創設も弾圧するなど、脆弱な国家運営で易々と日本に国権を奪われてしまいました。
併せてこの時期、皇帝高宗コジョンが近代的な税制も拒否し皇室の財政確保にのみ走った結果、税収不足で近代国家建設もままならなくなりましたが、その責任も彼に問わなくてはなりません。
この様に「大韓帝国」と帝国を名乗りはしても名ばかりで、この「韓国」とは非常に時代錯誤的な国家だったと言えるでしょう。
そして、1910年韓国併合により国を奪った日本は、ひとつになった国の中に「国」の字がある事を嫌い、韓国を朝鮮に戻しました。
よって「大韓・韓国」は右派・独立運動家にとって奪われた国名で有り、内実はさて置き、ある種の独立のシンボルネームとなった訳です。
そして第一次世界大戦後、アメリカ大統領ウィルソンの提唱した『民族自決主義』を受けた世界的な民族自決主義の流れの中で、1919年朝鮮でも『三一独立運動』が起こりました。
民族主義者(右派)は上海にて大韓民国 臨時政府を組織します。
「大韓で滅びたので大韓で興そう」をスローガンに奪われた韓国と言う国名を採用した訳です。
この時期のお話としてフィクションですがソンイェジン主演の映画「ラスト・プリンセス」が彼女の熱演も有り見ものです。
しかし、この頃からソ連の成立と共に活発化し右派の民族主義運動とは袂を分かった共産主義運動、左派は右派の使う「大韓」の名称を好みませんでした。
↓名前の分裂について詳しくはコチラ↓
<リョ・ウンヒョン>
何故ならその名称は復古主義に近く現実的で無いと思われたからです。
「韓国」の名称は13年間の短い間に使用されただけで有り、内実も先に挙げた通り「およそ近代的・民主的な国家を志向したワケでも無く、時代錯誤的な政策と脆弱な国家体制で、外国に易々と国家を売り渡した」情け無い国家のイメージだからです。
解放後いち早く『朝鮮人民共和国』を宣布し建国準備同盟(権準コンジュン)を率いた我が国を代表する政治家呂運亨リョウンヒョン:ウニョンも大韓民国臨時政府と言う名称を批判・反対しました。
<シン・チェホ>
また民族独立家で有り、著名な歴史家でも有る申釆浩シンチェホ(신채호)もその著書で大韓の名称を批判しています。
よって左派が大韓の名称を選択する事は無く、現実的な「朝鮮」を選びました。
すなわちこの頃から右派と左派の主義の対立が名称の対立に繋がる始まりとなりました。
<ドラマ 異夢イモン>
話は戻りますが、「臨政」の組織は党派争いと資金難に襲われ亡命政府とも連合国とも認められず蒋介石の庇護の元、僅かに命脈を保つだけの微力な組織でしたが、1945年祖国解放まで生きながらえた事で幾らかの権威を保つ事が出来ました。
右派による単独政権を企んでいたアメリカとリスンマン李承晩(리승만)はこれを利用して、単独選挙により誕生した政府を1948年大韓民国と名乗る事となりますが、それについては現代で詳しく触れます。
↓↓現代史はこちらで↓↓↓
左派がそれを拒否する事により元々は近代一時期に全土で名乗った国名の韓国が南半分を表す言葉になりました。
韓国では全域を韓半島、韓民族と呼びますが、日本では韓国を唯一合法政府と認めつつ、地域名は韓とは呼ばず朝鮮と呼びます。
つまり南半分だけを指して韓国と呼ぶ訳です。
<参考文献>
역사비평
東洋文庫 東アジア民族史1,2