黒沢 清を見る 2023




 







『花子さん』を、ひさしぶりにYouTubeで見ていると。

消える、とゆう黒沢 清による「人間の死」の表現が

言葉でも描かれているのに、気づくのだった。




『花子さん』と同時期の『回路』でも、人間が盛大に消えていた。

いや、壁のシミになって残ったりしていたのか。

いきなり消えてもおもしろくないから?





『大いなる幻影』で、武田真治は。

ゆるやかに画面から消え去りながら、また戻ってきて。

消える、とゆうコトがこの映画では死ぬコトと関係ない、それはわかるのだったが。

ここでも言葉として、「消えて」がキーワードであり

存在の不確かさ、あやふやな感じが日常(近未来の)の描写とともに描かれていた。







                『岸辺の旅』






『岸辺の旅』。

これこそが、人間の死を「消える」で表現していた作品。

浅野忠信が、消えるのだった。


それは、死ぬコトとイコールであり…

しかし、映画の冒頭から浅野忠信は「俺、死んだよ」と、妻の深津絵里に言う。

言われた深津絵里は、そして観客も、「じゃあ、あんた幽霊?」となる。


そこから、「死んだけど生きている」人が何人も登場して

その人たちも、のちのち「消える」コトでこちらも「あ、ホントに死んだんだな」と思う。

二段階の死。




それにしても、「死んだけど生きている」人が、あらためて死ぬとは…

映画ならではといえ、いかにも黒沢 清の世界だと思わされる。










       『花子さん』






ハナシを『花子さん』に戻せば。

加藤晴彦と京野ことみが、廃校の屋上のような場所で会話をするのだが。

撮り方として、『CURE』の屋上シーンを思い出すのだった。





屋上 / 飛び降りるコト




処女作とされる『六甲』からすでに…

黒沢 清の屋上好きは、あきらか。そしてさらに

飛び降りるコトも、かなり諸作で連発されている。





屋上。

『回路』で、麻生久美子が勤務する… 植物関係の会社は、屋上にあり。

それとは関係なく、ちがう場所(工場だったか)の高所から、誰かが飛び降りる。

それをワンカットで撮ったシーン。





おそらく、飛び降りの衝撃を狙っているのだろう。

『神田川淫乱戦争』の飛び降りも、衝撃ではある。

まあ、そもそも虚無的な(しかし陽気でもある)麻生うさぎが、自室の窓からポイポイなんでも投げ捨てる…

そのアクションが、飛び降りるコトの伏線でもあった。







   『神田川淫乱戦争』






しかし、黒沢 清の言うように「高さは撮りにくい」。

『岸辺の旅』の滝の、微妙な感じ。

いや、待てよ。黒沢 清は「海の広さも撮りにくい」と言ってなかったか?




つまりは、高いビル・山など… そして広い空間、海などを撮るとしたら

かなり対象から離れたトコロにカメラを置かねばならない。





『回路』の飛び降りシーンは、画面奥に飛び降りる人物を配し、手前に麻生久美子がいる、そんな構図だった。

あと、空撮による海の俯瞰ショットがある。






                『アカルイミライ』







『アカルイミライ』にも、なぜかオダギリジョーが屋根の上にのぼるシーンがあり…

橋や路上を俯瞰で撮るショットも印象的。

浅野忠信の屋上のシーンは、たぶん『CURE』の屋上とおなじ場所。





近年、驚かされたのは『クリーピー』のドローンショット。

映し出される地形。

ラスト近く、その地形をどこかの屋上から眺める香川照之。





屋上と関係ないハナシだが…

香川照之が、後半、地下室で鉄扉を開閉する。

それは、トビー・フーパー『悪魔のいけにえ』からの引用なのだろうが…

この地下室の鉄扉に、「えっ?」と驚く観客もかなりいた。

映画好きのわたしの知り合いも、「あれはないわ」と、しらけたと、言っていたが。

リアリズムから、常に遠く離れる黒沢 清なのだから、驚くには値しないだろう。





にしても、トビー・フーパーの作品のなかで唯一リアリズム風な『悪魔のいけにえ』の引用が…

「あれはないわ」とゆう反応をもたらすのも皮肉な事態ではある。





『悪魔のいけにえ』のどこがリアリズムなんだよ?

とゆう人もいるかもしれないが、映画の前半はあきらかに…

若者たちの普通の旅行を描いていたし、いよいよ殺人一家の家屋に舞台がうつる後半も、いかにもな娯楽映画的な描写は、ない。


『悪魔のいけにえ2』だと、デニス・ホッパーの存在や、ラストの遊園地などが、「みなさま、お楽しみあれ」なエンターテインメントを感じさせるが。







↑「リアルにやってくれ」派の意見サンプル







                  『CURE』






幽霊のエクリチュール


       


『贖罪』とゆう湊かなえが原作の作品は、えーっと…

2011年ですか。

その前は、『トウキョウソナタ』なのかな。


『トウキョウソナタ』も、黒沢 清のオリジナル脚本とゆうより、ほかの誰かの企画・脚本に…

あとから黒沢 清が参加したカタチだったと思うんですが。

『贖罪』以降は、もう、原作モノのオンパレードなんですね。

『リアル』、『岸辺の旅』、『クリーピー』、『散歩する侵略者』と。




それと別にね、黒沢 清のオリジナルの

『ダゲレオタイプの女』、『旅のおわり世界のはじまり』なんかがあると。



前田敦子の『SEVENTH CODE』も、オリジナル脚本ですね。




わたしはこれが好き、これはあんまりよくない等々

意見が、感想があるワケだけども。人の数だけ。

『贖罪』に関して率直にゆうとね… この犯罪ミステリーの原作、複数の女性の物語は…

黒沢 清に向いてない、相性のわるいモノだったなあと

わたし・五円木比克は思うのね。






しかし、じゃあおもしろくなかったかとゆうと、そうではないんだと。

原作を料理する、料理人、とゆうか…

映画作家・黒沢 清が、あの手この手で、がんばってるのがわかるじゃないですか。


それは、自作の焼き直し的だったり、とゆう部分や

アクション演出や、照明、光の演出だったりと。

いろいろ、おもしろいトコロがいくつもある。


なんだけども…

「なんかちがうなあ」と思うのは、なぜなのか。



原作の骨子は… 女と男のドラマでしょう。

かつて、つきあっていた男女の感情のもつれ、とゆう。

そこからの犯罪、なんだけども…

黒沢 清がそんなハナシに興味あるワケがない。って…

断言したらマズイけどね。


でも、青山真治的な… 対立のドラマ、そして感情の炸裂に

黒沢 清は、まったく興味がない。



もちろん、『CURE』の役所広司と萩原聖人の対立はおもしろすぎた…

そう、わたしも以前書いたし、さらにゆうと…

役所広司と中川安奈の、ギクシャクした関係がないと成り立たない。

役所広司が、「俺は女房を許す」と言っておきながら、その後の展開はああですからね。

そこを見れば、黒沢 清だって男と女のドラマやってるじゃないかとなる。





にしても弱いんですよ。

『LOFT』の、中谷美紀と豊川悦司。『叫』の、役所広司と小西真奈美。

ドラマが、盛り上がるようで、なんかそうでもないなってなる。

愛情、愛憎ってモノがほとんどないワケでしょう。



「わたしは人間ドラマに興味がない」とは、黒沢 清の発言だけれども。

恋するとか、そのねじれとして憎むとか、そうした感情に、まったく興味がない作家。


だから、と言っていいのかわからないけど、『贖罪』も、結局空回りだったと思う。





じゃあ、『LOFT』は? 『岸辺の旅』は?

ど~なのってなるんだけども。

『ダゲレオタイプの女』もね。


はっきり言えば、あんまりおもしろくない。


男女のドラマは、それほどよくない。わたしはそう思います。



これらの作品で、おもしろいのは、幽霊とか、ミイラなんですね。

『散歩する侵略者』だと、もちろん宇宙人ですよ。

そこがおもしろい、とゆうと、まあいまさらなんだけども。







                 『蜘蛛の瞳』






『蜘蛛の瞳』の、哀川翔とダンカンのね。

男と男、その関係はおもしろかったですよ。


友情、裏切り、そのテンマツ。


もちろん『CURE』の、役所広司と萩原聖人もサイコーです。


あと、『アカルイミライ』の…

藤竜也、浅野忠信、オダギリジョーね。


なにがおもしろいかって、やっぱり対立しますからね。

男同志だと、黒沢 清も対立のドラマをやるワケで…

そこからの、和解なり別れなりがおもしろい。







        『降霊』









ちょっと整理しますけど。


『贖罪』の空回り、と書きましたけどね、もちろん悪くはないのね。


原作モノ、それとの格闘。

まあ、『降霊』も原作モノでしたけど… それも『贖罪』と同じミステリーでね。


ミステリーの原作の力はあります。エンターテインメントとしての、おもしろエキスたっぷり。

ゆえに…

『降霊』も『贖罪』も、一般受けする要素があるといえますよ。



なんだけども。

『降霊』で、おもしろいのはやっぱり幽霊。


それと、役所広司と哀川翔の短いやりとり


「地獄は、ありますか?」

「 …あると思えばあるし、ないと思えばありません」


などの黒沢世界観。






繰り返しになるけども…

フィクションの… 幽霊、宇宙人。


高橋 洋脚本なら、悪魔的なキャラクター (六平直政、東出昌大)


それから『CURE』の、記憶を喪失した催眠術師


それが、おもしろいと。









                 黒沢 清 / 夏帆







記憶 想像 意識





物理世界と、意識世界。

これ、どちらも あやふやですよ。


物はかたまって、ある程度変わらない… 持続するし

生命も持続はすれど、変化して流れて… って。



ともかく変わってゆく。変化する。

運動する。

そこを、あやふやとゆうのもちょっと違うけどね。

結局、あやふや。

輪郭とか、モノのカタチは、すべて変化する。運動する。




「地獄は、ありますか?」って訊いて、「あると思えばあるし、ないと思えばありません」とは、その通り。


意識が認識する、現実。


現実とゆう、物理世界を認識する意識。

ようするに意識次第。



意識とは、なんでしょう?

それこそ、あやふや。




意識は、ある。


あるけれども、別次元にある感じ。ですよね?


もっと言えば言葉だって、あやふやとゆうか仮定のモノだし、いろんな解釈が成り立つしね。





言葉の存在。

それは、ま、罠ですよね。



だってさあ!

カタチ (音声・文字・記号) とゆう固定されたモノにね…

意味がのっているけれども…

その意味って、いくらでも変化するワケだから。




池田清彦いわく、「概念の、正確な定義はできないんですよ」。



ああ、『散歩する侵略者』の、概念を盗むとゆう設定の愚かさよ。











                『岸辺の旅』






『岸辺の旅』の、浅野忠信は

「俺、死んだよ」と、ぶっきらぼうに宣言する。


彼は、幽霊=人間であると。



作中のキャラクターみずから「死んだけど死んでない」と、常識を逸脱した発言をする。

リアリズムではなく、しかし、夫婦のドラマは愛情メインではある。

黒沢 清の、男女の映画。





にしても。


映画のなかの人間は、死ぬワケがない… そもそも生きていない。


それもまた、常識ではある。



のだが… 『岸辺の旅』における、幽霊…
浅野忠信や、小松政夫もまた、やがて「死ぬ=消える」のであった。

そこら辺の詳しい設定や、ルールなどは明示されてなかったと思う。

死んでも、1度は戻ってこれる?




物理世界の法則。

言葉のルール、文法。

映画のなかの、お約束。独自の世界観。




言葉は、書かれる。あるいは、話される。

映画は撮られる。

フィルムだったり、なんなりに。


そうした、フィジカル。記号のマテリアル。


幽霊は死なない。

しかし、記号が消えてなくなるコトは、ある。



書いたハズの文章が、保存されずに消える。


フィルムが消えてなくなる。


それは、映画の死なのかもしれない。



さらに言えば、死と言っても…

1本の作品の上映が終わる、だけかのように。

浅野忠信は最後に消えるのだった。







             『彼を信じていた十三日間』





それにしても。

「死は永遠の孤独」、そうつぶやいた『回路』の幽霊たちは、どこへ行ってしまったのか。



『回路』の幽霊。

それも映画だったとしたら、ど~だろう。


映画を発明した、哀川翔 (笑)


閉ざされた部屋の闇から生まれる存在。





加藤晴彦は、映画にさわってみせる。

映画の氾濫。


消える人間と、出現する映画… いや幽霊。



『回路』の麻生久美子は、ひたすら受け身的に悲惨な事態を生きるのだが…

なぜか、ラストの「わたしは幸せでした」とゆう彼女の言葉が、腑におちるのは

『回路』が、黒沢 清による映画讃歌だったからかもしれない。


氾濫する幽霊。氾濫する映画。







以上の、幽霊=映画説にのっとって、さらに言えば

『岸辺の旅』は、人間・深津絵里が…

映画である浅野忠信と、つかの間再会して、また別れるハナシになる。


それを、わたしは「退屈でもある」と思うが、ほかの幽霊のみなさんが…

あらわれては消える、その構成は悪くないと感じる。

退屈おおいに結構だと。







                『アカルイミライ』







『回路』のラスト、麻生久美子のモノローグ、じっと見守る役所広司…

そんな終わり方、でも、なんか悲しい感じじゃないと書いたけども。


おんなじように、『CURE』のラストも、人によってはゾッとするんでしょうが…

バッドエンドには思わないんですね。

死んだ (であろう) 萩原聖人の勝利なんじゃね?

とも思える。






まあ、だいたいハッピーエンドってないですけどね。黒沢 清は。

エンターテインメントにふった『勝手にしやがれ!!』や、『ドッペルゲンガー』は、ハッピーエンドだったかもしれない。


それ以外は…

うーん、『アカルイミライ』や『トウキョウソナタ』が微妙なんだけと。


『リアル』は、『大いなる幻影』は?

となるけれども、だいたい他は苦い結末ですよね。




『カリスマ』の終わり方を見ると…

この社会、世界を燃やしてしまわないと、ハッピーエンドなんてないよ

とゆう意志を感じますけどね。



まあ、『アカルイミライ』、『トウキョウソナタ』では

若者や子どもには希望が、未来がある、とゆう終わり方でした。