画像はすべて『ニンゲン合格』
















テアトル新宿で、青山真治『EUREKA ユリイカ』を見たのは、いつだっただろうか。

それは、5月24日だった。


2022年のハナシだ。




その感想は、すぐに書いたが↓




 











『キネマ旬報』で、追悼・青山真治の小特集があり。


それを読むと。


黒沢 清の文章があり。


自分と青山真治、そしてアメリカ映画について語っていた。




具体的にゆうと、サム・ペキンパーとゆう映画作家の名前を出して。


彼が作った作品、アメリカ映画、その影響力。


日本の映画作家が、アメリカ映画に憧れて、ではどうするか? そうした問題、悩み、解決法の…

歴史を、かんたんにふりかえる。






青山真治『ユリイカ』の、冒頭は、西部劇だった。


唐突に、馬が出てきて、「あの馬はなんなのか?」と。

鈍い感性のこちらは思ったりしたのだが。


西部劇からの、アクション。
銃撃戦だったのだ。



まったく気づかなかった。















ペキンパー作品を、もろに引用していたのは…

黒沢 清でいえば、『ニンゲン合格』。


これは、青山真治『ユリイカ』よりも、数年ほど先行していたが。

この『ニンゲン合格』にも、馬が出てくる。

いや、ポニーだったか。


『ニンゲン合格』は、いまふりかえれば、堂々たるアメリカ映画であり、娯楽映画であった。



もちろん、黒沢 清はいつだって娯楽映画、商業映画を撮っているのだが。

いつも、いつでも、わかりにくさがある。

説明の省略がある。


そうした話法、演出をして、ヨーロピアンと称するコトもあった。


さらにいえば、哀川翔・主演の『勝手にしやがれ!!』シリーズなどは。

ゆうまでもなく、明快な娯楽作品だったが。

黒沢 清のやりたい演出、画面上の動き、アクションなどは。

物語の展開とは、奇妙に一致しない。


いや、誤解されると困るが、いちおう、一致はしているのだった。


だが、アメリカ映画的な、物語とアクションの奇跡的な融合には至らない。


至らないのだが、それはそれで素晴らしいのだった。


『暴力教師』の、投げるアクション。


『神田川淫乱戦争』の、岸野雄一と麻生うさぎの抱擁。


『奴らは今夜もやってきた』の、不意にすだれが上がり、敵があらわれる瞬間。


『勝手にしやがれ!! 強奪計画』の、國村隼の奇妙な受け渡し。



それぞれ、ものすごくおもしろいが。

アメリカ映画との解離があった。



いま記したアクションのおもしろさ、それが…

黒沢 清の場合、遅れてやってくるのだった。


物語とアクションが、一致していない。わたしには、そう見える。見えた。


物語とゆうよりも、キャラクターの心理とアクションが、時間的に一致しないのだった。



『CURE』は、心理の説明を排して、アクションをいきなり見せる演出といえた。





そうした傾向こそが、黒沢 清だ。そう、わたし・五円木比克も書いてきたが。



いま、ふりかえれば、『ニンゲン合格』こそは、明快なアメリカ映画だったといえる。





『ニンゲン合格』が、いつもの黒沢 清の映画と少しちがうとすれば。


人物の心理を、彼ら自身の口から説明するトコロだろう。





『CURE』でも、役所広司が、暗い空間のなかで「ああそうだよ! 女房は俺の重荷だ」と、絶叫したりもしたが。



事件、それが何故おこったかの過程は、ことごとく省略されるのだった。







『ニンゲン合格』においては。


冒頭から、大杉漣による、過去の事件の説明があり。


西島秀俊の面倒をみる、役所広司は、謎の男にもみえるが。

途中で、彼の立場の説明もされる。





そして。

中盤、西島秀俊の口から、不意に願望、夢が語られる。


役所広司も、菅田俊に向かって、「俺は子どもは嫌いだ」と、説明する。



これほどまでに、わかりやすい黒沢 清作品も、ない。





さらに、テレビのなかの菅田俊を見る、一同の演出。


哀川翔と役所広司の、アイコンタクト。




クライマックスに、再び大杉漣が登場して。

またしても、彼の心情を叫びつつ、アクション映画のちょっとしたカタストロフを演じる。




ラスト。

チェーンソーで破壊された環境。

廃棄物。肉体。


そして、省略。



ペキンパーへのオマージュ。






『CURE』ラストで、「これでお前もおわりだ」とつぶやく役所広司だったが。


それを裏返すかのごとく、こんどは「お前は、確実に、存在した」とメッセージをおくる。


横たわる身体、そして役所広司。















「ペキンパーは、どうなった」「どこへいった」が、黒沢 清の脳裏に棲む言葉だったと、『キネマ旬報』にあった。


青山真治でいえば、『ユリイカ』での、アメリカンとヨーロピアンの、まさに融合(2本をひとつにまとめる)を経て。


さらに、『月の砂漠』のちょっとした停滞から…

数年たって撮った、『サッド ヴァケイション』こそは。


青山真治自身の「中上健次は、どうなった」「どこへいった」とゆう、念に対する見事な回答( 執着からの、解放。もうそのまんまやってやる! とゆう )だったと。



わたしはかんがえるが、それはまた別のハナシだ。