『CURE』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
結論から言ってしまいましょう。
 
 
 
黒沢 清による、『CURE』は空前絶後だった。
 
何が。
映画の本質的な不気味さ。
それが。
表現されていたと。
 
 
そして。
わたしのかんがえだとですね。
 
本質的に映画は不気味。
 
なのに、その本質を。
誰もが…
隠す、抑圧する。
 
 
 
なぜですかね?
ともかく、映画とゆう虚構を、現実に似せたいんですね。
 
これは現実なんですよ、とゆうテイで嘘をつくのが映画。
 
もう、なんてゆうか誰もそのやり方、フォーマットを疑ってません。
 
 
 
しかし。
当たり前ですけど、映画は現実なワケないですよ。
 
 
 
映画のなかの【人間】は、【幽霊】に似ている。
生身の、現実の人間ではない。
 
 
 
逆に言えば。
生きていない映像による虚構だから、【ほとんど幽霊のような人間】が描ける。
それが、映画。
 
 
 
 
 
繰り返しになりますけど。
 
通常、誰もが。
映画において、【生きている人間】が、生きているように、映像を撮る。
 
映画が、まるで【現実】であるかのように撮影をする。
 
 
「現実に、似せる」イコール… 不気味さを回避する、隠ぺいするとも言えます。
 
 
 
 
 
 
『CURE』においても。
 
役所広司は、「普通に生きている人間」として演出され、撮られている。
 
うじきつよし、他のみなさんも、おなじく「現実に生きている人っぽく」見えるように撮られています。
 
 
 
では、萩原聖人は?
 
 
間宮と呼ばれる男を演じる、萩原聖人。
彼のたたずまい、それは【幽霊】のように見えます。
 
そう見えませんか?
 
 
 
 
設定としては、幽霊ではなく、彼も間宮とゆう人間なのね。
 
えーって。
人間には見えないでしょう。
普通じゃない。あきらかに。
異常。
 
 
からっぼな人間?
 
そう言われてもねえ。うーん。
 
 
「彼は(精神の)病気だ」と、うじきつよしが断言します。
 
病気。
そうなんだけども、どうも、ただ者ではない。そう描写されるんですね。
 
 
 
 
黒沢 清がよく発言してますけど、レクター博士っぽいんですね。間宮は。
 
不気味な、からっぼな人間。
グレード高い。
なんなんだ、こいつ。
そうゆうキャラですね。
 
 
まあ、そんなコト、いまさら言うかって発言になるけども。
 
そのキャラを発明したのが、すごいよと。
レクター博士とも、まったくちがってますからね。間宮がですよ。
 
 
 
で、ね。
この不気味さが空前絶後なんですね。
 
間宮とゆうキャラの発明。
 
 
 
また、繰り返しになりますけど。
映画とは、そもそも不気味なんだと。
わたしは、そうかんがえますね。
 
 
現実を撮影して、記録する。
その記録された映像は、当然、生身の人間とは別の存在です。
 
 
それが。
生きているワケでもないのに、生きているように見える。
 
 
 
映像は、生きていない。
そんなコトは、誰でもわかってますよね。
 
映像は、生の現実とはちがう。
ちがうけれども。
通常、劇映画は「これは現実なんですよ」とゆうセンで作られる。
 
 
スタッフの姿は、もちろん画面から排除されるし。
物語のなかで、登場人物が、いったん死ねば。
「この人、ほんとうに死にましたよ」とゆうセンを崩さない。
 
 
例外的に、「死んだけど、死んでません」とゆうような。
あからさまに「現実(らしさ)の模倣」を放棄した、北野武『TAKESHI'S』のような、いわゆる「夢に似た映画」もあるんですけど。少しはね。
 
 
通常は、虚構の物語を、観客に「これは現実なんだ」と信じてもらうために。
映画は、現実を模倣する。
 
 
 
そんな模倣はクソ食らえと。
 
そうゆう勢いを感じますね。『CURE』に。
不気味さ全開。
 
そもそも映画って、こうゆうもん。
だとしても。
その不気味さを、表現するには。
 
「からっぽな人間」を描いた、そこに勝因があった。
わたし・五円木比克は、そう判断しますよ。
 
 
 
時系列的にいえば。
 
『奴らは今夜もやってきた』、『地獄の警備員』における、怪人、怪物から。
 
『CURE』では。
見た目、普通の人間にシフトした。そう言えるんですな。
 
萩原聖人=間宮邦彦のハナシですよ。
 
 
萩原=間宮は、
人間であると。見た目は。
 
 
そして、不気味な映画は、人間に似ている幽霊がそこらじゅうを歩き回るとゆう、そんな作品になったと。
 
 
 
 
 
 
黒沢 清『CURE』とは。
 
人間・役所広司が。
ふたりの病人、萩原聖人と中川安奈に、苦しめられる映画といえますね。
 
 
最終的に、ふたりを(明示されないけど)役所広司は殺して、心の平穏を得る、そんな結末。
 
 
役所広司が、萩原聖人を射殺するシーンは、はっきりと明示され。
 
萩原=間宮は死ぬ。
 
 
 
彼も、当然ながら「人間である」とゆう描写ですよ。
そのー、ねえ。人間なんだけども。
 
そうは見えません。
幽霊。
生きてない。
 
 
 
 
 
これに対して。
 
『叫』のラストにおいて。
それまで普通の人間のように描写されていた、小西真奈美が。
実は幽霊だったと明かされますね。
 
 
 
実は、このキャラクターは幽霊でした。とゆう。
よくあるパターンではありますな。
 
 
 
その『叫』の幽霊と、『CURE』の萩原=間宮の、どちらが幽霊に近いかと問えば。
もちろん、萩原=間宮のほう。
 
 
幽霊にしか見えない人間。
なんですけど…
 
えーっと。
 
 
 
 
 
            『CURE』
 
 
 
 
 
 
『CURE』の中盤で。
 
 
 
からっぽな人間である萩原=間宮と。
自らの心を、感情を抑圧していた役所広司が。
暗く不気味な室内において、直接対決するシーン。
 
このシーンが、とにかく好きなんですよ!
 
めちゃめちゃおもしろい。
 
 
 
この場面がですね。
黒沢 清得意の… こう、「恥ずかしさ」とゆう内面のベール=幕がですね。
鮮やかに剥がされる場面であり。カタルシスの絶頂といえるでしょう。
 
 
 
人間・役所広司=高部とゆう刑事は。
 
責任感が内面にあり、自分の自我(中心)が、からっぽだとは、決してかんがえない人物です。
 
悩める男。
苦しんでますよ。
それは、ふたりの病人のせいで!
 
 
 
それに対し、萩原=間宮は。
 
他人。人間の内面に入り込む男であった。
彼は「からっぽ」だから、他人の心に入って、誘導し、操れる。
 
意外と積極的に、人間の心をあやつろうと企む。
雲のように、流されつつ、歩きながら、
質問する。
 
「おれ、あんたのハナシが聞きたい」
 
そして、「あんたがやりたいのは、人を殺すコトだ」と、催眠暗示をかける。
 
 
 
 
 
萩原=間宮による。
内面への侵入。
 
いろんな人を、内部からあやつる。
内部。
つまり、心に入れる。
 
このシーンでも。
まあ、催眠術なんですけど…
殺人せよって、命令しますよね。
 
 
命令。ソフトに。
催眠暗示しようとして。
それを、刑事・役所広司は拒絶する。
 
 
 
 
 
 
役所広司の内面は、からっぽではなく、感情で満たされていたと。
 
いや、それだけでなく。
その感情を、はっきりと言語化できる、知性の持ち主、役所広司。
すごい。
 
「あんた、すごいよ」
 
 
 
言語化された感情は、外部に吐き出される。
可視化される、内面。
 
 
 
 
 
この対決シーンで、もっとも感動的なのは次のセリフです。役所広司が言うには
 
俺は刑事だから感情を外に出すなと教育されてきた。その結果が、これだ
 
って。
 
 
 
つづけて…
 
 
「俺には女房の心がわからない。あいつにも俺のこの苦しみはわからない。こうなったのもみんな俺の責任だ。わかってるよ、だからどうだってんだ!」
 
「そうするしかなかったんだろ」
 
「そうだよ!他にどうすりゃよかったんだよ!」
 
 
 
 
タイトルの『CURE』、治癒、そのものと言えるシーンですね。ここは
 
 
その治癒の立場が、こう…
犯人が刑事を治癒するとゆう、いわば逆転した関係だとゆう、おもしろさなんです。
 
 
犯人が、刑事を治癒する。
幽霊が、人間を教育する。
 
 
 
 
幽霊のような萩原=間宮が。
感情を抑圧しすぎた役所広司を治療する。
ってゆうか。
 
 
勝手に補足すれば…
 
「あんたのその責任感が、あんた自身を苦しめてきただろ。
からっぽになれ。人間なんてどこにもいないだろ」と。
 
 
で、それだけじゃ『CURE』とゆう映画がおもしろくなりませんから。
 
「あんたも殺人してみない。しようよ。ね?」って誘導するんだけども。
 
 
それに対して、ふざけるな!と、役所広司はブチ切れる。
 
無責任な映画と、人間社会はちがうと。
 
 
 
「おい犯罪者。
あるいは、幽霊に似た奴よ。人間を殺す? 許されると思ってんのか? ふざけるなよ」
 
 
もちろん、ふざけているんです。
映画って。
 
ある意味、現実なめてますよ。
 
なめてるってゆうか、現実のふりしてる。
そんなワケないのに!OH!  NO!!!
 
 
 
「生まれ変われ。おれみたいに」
 
その言葉を、役所広司は拒絶して。
 
でも。確実に、治癒された役所広司はラストシーンまで元気に活動していたと。
 
 
役所広司、元気を取り戻す。
 
 
 
人間が、(人間のふりをした) 映画に教育される。
 
萩原=間宮は、映画=幽霊である。
 
 
最後は、『ダーティハリー』のように、(ある意味勝手に) 犯人射殺とゆう。
 
 
もちろん、映画のなかの人間は、生きている人間じゃありませんから、映画のなかでは殺人は許される。
 
 
 
 
 
いま急に思い出しました。
 
 
「殺せ」と命令(催眠暗示)する、間宮とゆうキャラクターを創造した黒沢 清は。
 
 
かつて、こう発言してました。
 
 
「みんなが笑いながら自殺できる。そんな世の中になればいいですね」と。
 
 
 
ソースは、手元にないんですけど…
ディレクターズ・カンパニー発足時の、雑誌の、各監督へのアンケートです。
 
 
 
 
 
殺人。
 
その魅惑に、映画は頼ってきたのだ。
 
 
そんな意味の発言もしている、黒沢 清。
 
 
 
暴力、殺人。
 
それが映画のなかで描かれると。
とにかく、おもしろくなるんだと。
 
 
 
 
それは、当たり前とも言えますけど。
役所広司が…
 
テーブルの上の皿などをひっぱたきながら、「ああ、そうだよ!」と叫ぶ。
 
あのスペクタクルは、殺人でもなく暴力でもなく。
 
抑えていた感情、それが爆発するおもしろさ。
 
 
 
感情。会話。アクション。
 
 
「だが、(俺は)お前たちは許さない」と、役所広司は言う。
 
 
 
お前たちとは、萩原=間宮のコトです。
 
 
そう、あきらかな対立宣言を耳にしても。
萩原=間宮は、まったく意にかいさない。
どこ吹く風。
 
のれんに腕押し。
 
 
 
 
役所広司にしても。
 
パッと言葉が、たとえば「女房は俺の重荷だ」と出てきたけども。
 
それは、萩原=間宮が、
「あたまのイカれた女房がいたんじゃ刑事も形なしだな」、「自宅で世話するのはたいへんだろ」と、話すから答えたんですね。
 
 
奇妙なコミュニケーション。
 
 
 
 
 
 
からっぼな人間。
 
からっぼな映画。
 
 
萩原=間宮は、薄暗い空間にいる。
 
 
そこは。
 
闇のなかに、ひとすじの光がさす映画館のような暗い空間だ…
と言えば、強引にすぎるかもしれない。
 
 
 
どこか、こう。
 
『エクソシスト3』の、病室のシーンにも似ている。
 
黒沢 清得意の模倣。
 
犯人と刑事。
病室。
 
 
 
 
 
 
 
 
             『エクソシスト3』
 
 
 
 
 
 
 
 
不気味な闇。
 
だだっ広く、からっぼな空間。
 
 
海辺の砂浜。
 
奇妙な病室。
 
 
広すぎる空間。
現実にはありえないだろう、広い部屋。
 
 
それが、『CURE』の空間演出です。
 
 
 
 
 
 
映画と人間。
 
 
はたして、どちらが勝利したのだろうか。
 
と問えば…
それは、引き分けだろうと思えるけれども。
 
 
 
 
映画=幽霊のような、そんな人間を作り上げた黒沢 清は。
 
なにかに勝利した。
 
 
 
 
 
映画と人間のコラボレーション。
 
それは、空前絶後でした。
 
 
わたしは、そうかんがえます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
           『クリーピー』撮影現場
 
 
 
 
 
 
 
 
 ③