ほめる | 「気づき」と「人間力」の教育 一尾塾

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ほめる。

基本、私はほめない。
というのも、私の解釈だと、一般的にいう、ほめる、は子どもに対しては、褒美として使われることが多いように思えるからだ。

もっと勉強してもらうためにほめる。
お手伝いをしてほしいからほめる。
もっとがんばってほしいからほめる。

そうやって、ほめる、ということを褒美として使うと、悪い副作用がでるように思う。
それに、なにかをできるようになったときの褒美としての、ほめ、だと、やり始めてすぐに、ネタが尽きることに気づくだろう。

特に小学生くらいになってくると、自分なりの判断が芽生えてきて、大人のそれくらいの下心はなんとなく掴めると感じてる。しかも、もしほめたとして、本人がそこまで思っていなかったとしたら、そこにミスコミュニケーションが起こる。それにより、距離が遠くなるかもしれない。

ほめる、という言葉にネガティブな感覚が少ないために、その弊害を見えにくくさせている。そんな気がする。

ちなみに、褒美としてのほめる、の弊害は・・・
1・褒美(罰)がないとやらなくなる。
2・褒美(罰)がエスカレートする
3・結果だけを重視する
4・手段を選ばなくなる。

と言われている。
子どものうちはよいかもしれないが、大人になってもこの考えがしみついていると・・・ そんな大人にはなってもらいたくない。

そして、結局、褒美と罰は同じこと。
というか、人が人を人として扱っていないということだとも言えるかもしれない。もちろん罰がいらないといっているわけではない。罰(褒美)が必要ではないところで、それを多用してしまうことがよくないと考えている。

最初のうちは、私もほめないことに少し違和感があったものの、慣れればなんてことはない。結局人のモチベーションの上げ方を他に知らなかっただけのことで、そして、それを練習してなかっただけのことだった。

とりたててほめるわけではないので、淡々とした感じに見えるかもしれないが、落ち着いた雰囲気のなかで、浮き沈みない感じでのやりとりのほうが、相手に沁み入っていくのではないかと考えている。

承認としての、ほめ、と、褒美としての、ほめ。
自分の意図とともに、大切にすべきであることは、相手の受け取り方。
こちらとしては、褒美のつもりなどないのに、相手がそのように解釈することもあるだろう。それでもほめたいのであれば、そこに気をつけてほめるとよいのではないかと思う。

でも、きっと子どもががんばってなにかできたときは、ほめるのではなく、いっしょに喜べばよいのだし、がんばったと本人が思ったのであれば、がんばったんだね!と共感すればいいのだと思う。

そんなことを思いつつ、いつも通り淡々とすでにできていることを生徒に伝えている。