安田記念には参りました。完膚なきまでの敗戦とはこのことかと思います。「競馬予想TV!」のGI回収率も6位に落ち、宝塚記念の出走権を失いました。
いろいろ書きたいことはあるのですが、「言い訳を潔しとしない」のは、この仕事をやっていく上で大事にしたいこと。敢えて何も書きません。覆水盆に返らず。結果を次以降の予想に活かしていく以外に、われわれはどうしようもないのです。
「すべての結果は必然である」という言葉が私は結構好きです。先週の結果は、上位5人の予想家を「宝塚記念で予想するにふさわしい」と認めたということでしょう。上位5人のみなさんに拍手を送り、宝塚記念でのご健闘を祈りたいと思います。
さて、ミスターシービーです。大昔のお恥ずかしい話ですが、やっぱりこの話を書かないと先に進めないので、書いてしまいます。ミスターシービー三冠の年、24歳だった若き市丸は、ある女性と付き合っていました。強いミスターシービーのレースを共にテレビで見ながら、幸せな時間を過ごしました。
ミスターシービーは三冠制覇の後、JCも有馬記念もパスします。そして、市丸はというと、いろいろありまして、シービー三冠の翌年1月に彼女から別れを告げられました。初めての失恋らしい失恋です。
このときのことは、いまだに忘れません。なにしろ、「起きているのが苦痛」でした。一切の食べ物は身体が受け付けず、辛い以外の感情がない。「起きた」ことがわかった瞬間から、ともかく早く寝てしまいたいと強く思いました。
幸い水分だけは摂れたので、生きるために必要な作業をなんとかして終えたあとは、毎日、可能な限り早めに酒を飲みました。入手できる範囲でできるだけ強く、早く酔っ払う酒を飲む。酔っ払って朦朧としてくると、なんとか辛さを紛らすことができました。そして眠くなってくると、混沌とした意識の中で、妙な嬉しさを感じたのを覚えています。
でもまあ、人間というのは「忘れる」生き物なんですよね。どんなにひどい状況でも、1か月もすれば忘れちゃうんです。そして、次第に普通の状態に戻っていく。幸いアルコール依存になることもなく、精神的に厳しくなることもなく、忘れることによってすべての生活が徐々に通常に戻っていきました。
そして、ミスターシービーはといえば、この春は蹄を悪くするなどして全休。秋の毎日王冠で、三冠達成した菊花賞以来、最初のレースを迎えます。
筆者は、ミスターシービーの毎日王冠を心待ちにしていました。約1年間レースに使えず、雌伏して自らの身体と戦い、少しずつ少しずつレースに使える状態にまで回復してきたミスターシービー。若き筆者は、それを自分の状況と重ね合わせていました。秋になれば、秋になれば全部うまくいく、と。(青臭くてごめんなさい)
その1984年の毎日王冠は、東京競馬場に初めてターフビジョンが導入された週の重賞として行われました。逆に言うと、この年まで競馬場に大きなビジョンはなく、競馬場で見ている観客は実際のレースだけを肉眼や双眼鏡で見ていたのです。現在50歳以下の競馬ファンには、何のことやらわからないかもしれませんね。古い話ですみません。
このときは、3角手前で後方を進むミスターシービーがターフビジョンに大映しになると、それまで競馬場では聞いたことのなかった悲鳴のような歓声が上がりました。そして、上がり3ハロン33秒7という、当時としては信じられない上がりタイムで追い込んだものの、カツラギエースの2着に敗れています。
筆者は、ミスターシービーが届かなかったことよりも、元気に復活してくれたこと、そしていつもの強烈な末脚を見せてくれたことが嬉しく、府中の居酒屋で幸せに飲みました。これなら、天皇賞・秋は勝てると確信しながら。
今週末は久々に「競馬予想TV!」お休みですので、今週中にもう一回更新できるといいなあと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
ミスターシービーについて書く、と先週予告してましたが、まさかダービーが「ミスターシービー=メジロモンスニーの1983年以来37年ぶり」に皐月賞と同じ1・2着で決まるとは…。
夕刊フジの予想はなんとか的中。「競馬予想TV!」で、その馬単も取りはしました。でも、馬単350円、馬連270円ではねえ。これでは勝負にならないと、コントレイルから違う馬への馬券に色気を見せてしまいました。悔いが残ります。
レースでは、直線残り100mを切ってから「りゅうせーーーー」って叫んだんですが、坂井瑠星騎手サトノインプレッサはアタマ差4着。3連単3連複は1-2-4着です。うーん、惜しかった。でもまあ、たとえ350円でもそこへ一点勝負でドカンと行けなかった、さらにヴェルトライゼンデを買ってない時点で完敗ですね。心は安田記念へ!
ミスターシービーといえば、父トウショウボーイと母シービークインが同じ新馬戦に出走していたことで有名です。この新馬戦はトウショウボーイが勝ち、シービークインは5着。その後、トウショウボーイは皐月賞、有馬記念、宝塚記念を勝ち、テンポイント、グリーングラスとTTG時代を築きました。
シービークインのほうは、その後4歳牝馬特別(現フローラS)、毎日王冠、京王杯SHと重賞を3勝しています。この2頭の初仔。血統的にもかなり期待されていました。
外見的には、ともかく目が大きくて、美しい馬だったというのを覚えています。いろんな競馬関係者がその容姿を絶賛しています。
82年11月東京競馬場の新馬1600mで5馬身差の圧勝を見せたミスターシービーは、12月中山の黒松賞1600mをクビ差で勝ったあと、3週後同じ中山1600mひいらぎ賞で大きく出遅れ、強烈な追い込みを見せるもクビ差2着と敗れてしまいました。負けはしたものの、このとき吉永正人騎手は「シービーのことがわかった気がする」と言ったといわれています。
そして83年、ミスターシービーは快挙を成し遂げます。共同通信杯→弥生賞→皐月賞と3連勝。迎えたダービーでは、断然1番人気にこたえて皐月賞2着のメジロモンスニーを再び降して快勝しました。
このダービーで吉永騎手は2週間の騎乗停止処分になります。キクノフラッシュと衝突し、ニシノスキーに進路妨害したというものでした。ミスターシービーの話になると、いつもこのことを言われてきました(さすがに、最近はミスターシービーが話題に上ることはほぼなくなったので聞きませんが)。
いわく「断然人気だから失格にできなかった」、「アイドルホースを作りたかったから失格にしなかった」などなど…。
ただ、当時、パトロールビデオは公開されていません。実際にそれを見た競馬関係者の話では、直線入り口でタケノヒエンが外斜行し、それを避けようとしたもので、失格には当たらないだろうということでした。いま残っている直線入り口が映っている動画で見直しても、タケノヒエンがかなり外へ斜行し、それに押し出されるように外へ持って行かれた印象しかありません。
「これが騎乗停止?」
というのが率直な感想です。もちろん、これは不鮮明な映像だし、完全に真ん前から映した映像ではないので、これだけではわからないこともあるでしょう。また、当時のルールは今とは違いますので、解釈の違いもあるでしょう。
ひとつだけ言いたいのは、騎乗停止になったという事実だけで、ミスターシービーの価値をおとしめるのだけは勘弁していただきたいということです。
ああ、この件になると、どうしても若い頃のことを思い出して熱くなってしまう。還暦ジジイらしからぬ物言いですな。反省反省。いわゆる若はげの至りです。あれ、なんか違う?
さて、また長くなってきたので続きは次回でお願いします。安田記念前にもう一回更新したいですが、さてどうなりますか。更新できなくても怒らないでね。
82年4月29日、5歳(現表記)になったモンテプリンスは、1番人気で天皇賞・春に出走しました。鞍上の吉永正人騎手は八大競走未勝利。53連敗中です。
「それでも、絶対に勝てる。今日が吉永正人さんの新しい門出の日なんだ」
筆者は、そう信じ込んでいました。
スタートすると、モンテプリンスはいつものように2番手につけました。「逃げ」と「追込」という極端な競馬が話題だった吉永騎手ですが、この馬だけは「一番強い馬は正攻法で」という気持ちが伝わってくるような戦法を採っていました。
しかし、数頭が外から上がっていき、ペースが速くなると、1周目のスタンド前では前を争った5頭の馬たちから4~5馬身離れた6番手につけました。前の馬群は明らかに速く、これは冷静な戦略だったと思います。
果たして、向正面で前の馬たちが落ちてくると、モンテプリンスは3角からジワジワと進出を開始します。4角で先頭に立ったミナガワマンナの外から馬なりで進出すると、直線は一気に突き放し、最後は前年の有馬記念勝ち馬アンバーシャダイを寄せつけずに快勝しました。
「無冠のプリンスに果たして春は訪れるか」
「今日は大丈夫だ 今日は大丈夫だ」
杉本清アナウンサーの暖かい実況が心に染みました。吉永正人40歳、記念すべき初の八大競走制覇。筆者が競馬で泣いたのは、この日が初めてだった気がします。
モンテプリンスは、その後宝塚記念も勝ちましたが、繋靱帯炎を発症して休養に入り、年末の有馬記念で復帰。しかし、この日は休養明けとともに苦手の重馬場で11着惨敗。このまま引退となりました。
この年の年度代表馬は間違いないだろうと思っていましたが、なんと有馬記念を勝っただけのヒカリデュールに奪われたのは残念でした。モンテプリンスにはドリーム賞なる特別賞が与えられましたが、今なら異論が噴出して大変だったのではないでしょうか。
引退式は翌83年1月16日、なんとシービークロスと合同でおこなわれました。個人的には、なんとも贅沢な併せ馬。仕事で行けなかったのを今でも悔やんでいます。
そして、この83年が吉永騎手にとってのメモリアルイヤーとなります。モンテプリンスに続き、クラシックを意識する馬が巡ってきたのです。
その馬の名は、ミスターシービー。そう、19年ぶりの三冠馬です。
もったいぶってすみませんが、ミスターシービーについては次回へ。この馬についても、語り尽くせないほどの思い出があります。
日曜にダービーを的中させ、来週は上機嫌で鼻歌でも歌いながらこのブログが更新できたらいいな、などと思ってますが果たして。
オークスは「競馬予想TV!」で◎デアリングタクトについて語っているときに言ったとおり、「2番手は横一線。何が来ても不思議ではない」と思ってました。
結果はと言うと、デアリングタクトは前半から他馬に寄られるなどかなりいじめられて、とうとう最後まで外に出せず、非常に厳しい競馬に。しかし、それでも直線でスペースを見つけると、あっさり抜け出して勝ちました。
ただ、なにしろ単勝1.6倍ですから、◎が合っていたからと言って威張れるわけもなく、しかも2、3着馬が無印ですから何も言うことはありません。完敗です。
最初の1000mが比較的速め59秒8で進み、ここからの600mが極端に緩んで38秒2。上がりが800m46秒3→600m34秒2で上がりの競馬になりました。かなり前に有利に働いたと思います。それでも差し切ったデアリングタクトは強かったと言えますし、2・3着馬はだいぶ恵まれたように感じました。
もちろん、それが外れた言い訳にはなりません。何が言いたいかというと、ダービー頑張ります! でしょうか(笑)。
吉永正人騎手追っかけ、の続きです。
シービークロスは、4歳秋(現表記)の連勝で天皇賞・秋(当時は3200m。しかも今でいうジャパンカップの時期に行われていた)の本命候補に推されていましたが、繋靱帯炎を発症して回避。翌80年春はオープンを叩いて天皇賞・春に1番人気で向かいましたが、この年は京都が改修のため阪神開催。現在のような急坂のあるコースではなく、平坦、小回りの阪神です。
このときはテレビ観戦でしたが、鮮明に覚えてます。ニチドウタローが先に抜け出して快勝。最後の最後に白い馬が画面の端に突っ込んできたのが見えたんですが、2着争いまで。結果は2着からアタマ、クビ差の4着でした。
その後は繋靱帯炎の再発もあり、秋に2戦するも振るわず。6歳(現表記)になった81年4月、中山のオープンで減量騎手を乗せて6番人気で勝ちましたが、これが最後のレースとなりました。
種牡馬入りし、当初は人気もなかったんですが、初年度からタマモクロス、2年目にシノクロスを出して注目されました。9年という短い種牡馬生活で、GIはタマモクロスの3勝のみですが、重賞は13勝。ホワイトストーンがG2を3勝し、菊花賞2着、ダービー・有馬記念3着の成績を残しています。
吉永正人騎手はといえば、80年クラシックにモンテプリンスという強豪に巡り会います。
ところが、皐月賞は苦手の不良馬場で4着。NHK杯(当時2000m重賞)を7馬身差で圧勝しながら、ダービーはクビ差2着、菊花賞もクビ差2着。翌81年は、秋の天皇賞でホウヨウボーイのハナ差2着。第1回JC7着のあと、有馬記念3着。
シービークロスに続きモンテプリンスでも惜敗を続けたことで、「吉永では八大競走(当時はまだグレードレース制がなく、牡馬クラシック3冠と桜花賞、オークス、春秋の天皇賞、有馬記念を合わせてこう呼んだ)を勝てない」と言われるようになってしまいました。
八大競走53連敗。モンテプリンスで臨んだ82年天皇賞(春)は1番人気でしたが、「騎手が…」などと言う声をたびたび耳にしました。そのたびに、悔しくてぶるぶる震えた若き日の市丸です。
今日はこのくらいで。今週もう一回更新したいんですが、ダービーウイークなので難しいかもしれません。ゆるい感じでお許しください。
では、「競馬場の達人」について書きましょうか。ご覧になった方はまどろっこしいかもしれませんが、基本的にはご覧になってない方でもわかるように書きたいと思います。
まず、今回の「競馬場の達人」は、私のような還暦ハゲジジイが全レース一喜一憂しながら、当たっただの外れただの言ってるだけの記録です。
それを、素晴らしいディレクション、編集、音響、照明、そしてあの有名な声優の大塚芳忠さん(わが家的には仮面ライダー電王のデネブ役としてリスペクトしております)によるナレーション。すべてを駆使して盛り立てていただき、完成度の高いものにしてくださいました。
スタッフ、関係者のみなさま、そしてグリーンチャンネルのみなさまに深く感謝する次第です。
では、まず吉永正人さんについて。
え、そこから? と思われるかも知れませんが、筆者にとっては非常に重要な話です。
本編で流れなかったことも含めて、ここに書き留めておきたいと思います。
筆者が競馬と出会ったのは20歳少し前でした。1979年カツラノハイセイコが勝ったダービーです。このとき、競馬に誘ってくれた友人から、寺山修司さんが競馬の本を出していることを聞きました。
「おお寺山修司なら読んだことある」と思い、まず書店で手に取ったのが、「馬敗れて草原あり」でした。ここから、競馬にのめり込んでいきました。
寺山修司さんの競馬関連書籍をすべて読み、そこから派生していろんな本を読みました。そんな中で、寺山さんが推す吉永正人騎手(当時)を知り、注目するようになって、そして出会ったのがシービークロス(芦毛。後のタマモクロス、ホワイトストーンの父)でした。
シービークロスについては本編でも取り上げていただきましたが、79年の秋、毎日王冠→目黒記念(秋)の連勝(今とはかなりローテが違います)。これには度肝を抜かれました。このへんについて語り始めると何文字あっても足りないのでかなり省略しますが、毎日王冠は日本の競馬史上初めて2000m2分を切ったレース(勝ちタイム1分59秒9)。最後方から直線内を突いて伸びた脚にはしびれました。
そして、目黒記念(秋)はヒダカホーリュウの大逃げで激しいレースとなり、シービークロスは向正面で恐らく100m以上離された最後方。そこから強烈な追い込みで勝ったわけです。
本編でも話したように、ここで一気にシービークロスと吉永正人騎手のファンになりました。
一頭だけ白い馬が、故障したのかと思うほど最後尾の馬からさらに離れた最後方。さすがにもうダメかなと思っていたら、そこからぐいぐい上がっていって、なんと勝ってしまうのです。競馬を見始めて半年も経たない初心者だった筆者が、競馬のもつ魅力に取りつかれてしまったのも当然ではないでしょうか。
ただ、シービークロスも吉永正人騎手も、その後、決して運がいいとは言えない道を歩むことになります。
例によって行数が長くなってまいりました。
ここで一旦切らせてください。
次回は「吉永正人ファンの一喜一憂」かな?
週末は多忙ゆえ、週明けになると思います。お許しを。
照明係は帰るぞ。
皆の者、暗くならぬようにの!