名文である。この「海の思い出」には、作者の何気ない視線が海という自然界と同調する事で成立する、まさに自然とのコミュニケーションへのあくなき探求を示唆がある。
    冒頭の海の入口でもあり陸との境界の領域でもある波の多様なる様相からは、作者の確固なる視点が明らかとなる。其は、「変動」の概念に満ちている。
    そして今度は風がもたらす自然界の変転から生まれたモンゴウイカを捕獲し料理する、実に豊かなる海浜の食生活について。
    其は続く段落では、月夜の漁としてササガニとの聡明さに満ちた格闘だ。ここには徹夜の漁から朝には釜茹でされた真っ赤なカニを食べる作者の、海辺という環境に生きる人間の生存競争の一端を垣間見せる。
    其は過剰であればあるほど海の生物との戯れの強度の高まりを、父との絆を深める事と比例させてゆく作者の家族愛さえ窺えよう。
    かつてヘミングウェイが描いた孤絶の海との共存共栄のコミュニケーションが、ここでは親子という両義性を保った複数性を獲得する事で、多様化された海のライフ・スタイルを提示する時代変遷が次のパラグラフで語られる。
    そこでは海中の散歩で漁するハマグリ捕獲作戦が展開される。その料理の過程と美味しさをヘミングウェイの如き簡潔な文体で描く時、リアリズムがノスタルジアを凌駕する叙事的作用が働く。
    最期の満天の星への視点の移行が作者の海との歴史観をも纏う事で、最早埋め立て地となった自然界との交流の絶えた現代との差異を図らずも露呈する。其処には逝ってしまった友との語らいも最早なく、傘寿を過ぎた作者の孤独が女ヘミングウェイとして君臨する。
    そんな海辺から潮の香りを喪失した現在までの詩的生活の変遷を、この「女の気持ち」では実に簡潔に叙述されている。この海との遍歴が自分の成長記録として確立するアイデンティティを極めて潔い文体で綴られた、此は実に味わい深い一つの詩的散文としても楽しめよう。
(了)