京都の三十三間堂の近くに養源院という小さな寺がある。
私は2年前にその寺を訪れた。
淀の方が建立した父浅井長政の菩提寺、そして血天井で有名な場所を一度見ておこうと思った。
養源院は浅井長政の戒名でもある。
関ヶ原合戦直前に伏見城を守ったのは徳川家康の乳兄弟の鳥居元忠。
伏見城を守るのは鳥居元忠以下わずか2000人の将兵のみ。
攻めるは石田三成率いる西軍4万の軍勢。
元忠以下徳川方は伏見城で西軍を足止めすること2週間。
城内に300人が生き残ったが最後は力尽き元忠以下全員が自刃し伏見城は落城。
自刃した将兵たちの遺骸は関ヶ原の戦い後まで場内に2か月間放置され床には遺体の跡に血が染み悲惨な状態だったようだ。
その遺骸や血のシミが生々しい床を養源院の天井の材料、血天井として使用されている。
実際に手足の形の跡が黒く生々しく残っている。
ここが鳥居元忠公の遺骸の跡という説明も受けた。
西軍が必ず通り攻めるであろう重要な場所、上杉攻めに出向いている徳川方には圧倒的に不利で負け戦になるのは間違いない伏見城。
そこで何とか持ちこたえながら西軍の足止めをする。
捨て石とも言える必ず討ち死にするであろう戦。
家康はそんな困難な役割を乳兄弟である鳥居元忠にしか頼む事が出来なかったようだ。
そんな話を2年前に知った。
養源院は淀の方が父の浅井長政の菩提寺として建立したが豊臣氏滅亡後は荒れていた。
それを淀の方の妹のお江与の方が再建した。
しかし元はと言えば徳川家には敵だった淀の方が建立した寺であったので、二代将軍夫人のお江与の方の希望とはいえ、徳川家の中で再建には反対が大きかった。
だから、お江与の方は知恵をしぼり、関ヶ原前哨戦で徳川方に忠義をつくした鳥居元忠以下伏見城守備将兵を祀るために伏見城の床材を養源院の天井に使うことで、寺の再建を果たしている。
当時自刃した将兵の手のひらの跡や足や顔の跡もあり生々しいこと、この上ない。
当時の人々の生や死の痕跡が生々しい。
養源院を訪れると上記のことをガイドの方が詳しくしてくださる。
殿、天下人の座は間も無くですぞ!ここ(伏見城)はそれがしに任せて存分に働きなされ!
そんな元忠の声が聞こえるようだ。
さて、今夜のどうする家康ではどのように描かれるか。
養源院は血天井の他にも、俵屋宗達の杉戸絵や襖絵、美しい庭園などなど…小さな寺院だけどストーリーに満ちた見どころ満載な場所である。
優美な伏見城の遺構も垣間見ることが出来る。