sasakirinのブログ

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能登・穴水町のまちづくり会社でのインターンシップのこと
奥能登のこと

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僕は、能登島にあるファームで週に数日働かせてもらっています。


今日もその仕事でした。


今日の作業は、小松菜の時間が経ちすぎて大きくなりすぎたり、虫に食われているものが多くなってきているものを撤去する作業でした


虫が食っているから、捨てる(農薬使用していません)


商品にならないから捨てる


もったないです


ということで、どっさりもらってきました!(色んな人におすそわけもしました)



茹でて冷凍しておけば、長期間もたせられるとファームで教わり、洗い方も教わりました


虫がいるかもしれないし、土ついてるから一本一本洗ったほうがいいと言われたので

そのとおりにやってみました


そんな中で感じた気づき



まず、自分の母とばあちゃんの苦労


ヤンキー座りでホースから水出し洗うと、足が痛いし腰が痛い


そして時間かかる


土流して、葉っぱ軽く流して


この作業が本当に大変でした


なっぱ類って、こうやって洗ってんのかぁって思ったらやっぱ苦労なのです


僕の地域は、長野の上のほうなので、野沢菜を食べます


ばあちゃんが毎年お漬物作ります(寒い時期に)


それを気づかずに食べていた自分に少し虚しさを感じました


おいしいものありがとう


2つ目


それは、僕がホースで洗ってたことで思ったこと


時間がかかるのです、そして水の無駄遣い


管理人さんごめんなさい(1時間くらい使いました(笑))


ここで、ばあちゃんがどうやってたかって考えると、川で洗ってたなぁと



たしかに川があればジャブジャブと洗えたと思いました


そしたらすぐにこの作業終わるし、水も使わなくていいんです


でも、今は川で菜っぱや野菜洗ってる人見かけません


川が汚いから


単純なことですが、スーパーの野菜は土ついてないし、虫がついてないから

丁寧に洗う必要なんてないんだなぁと


そうやって、みんな自分で作って洗って食べるってことから、簡単にスーパーで虫もいない土もついていないもの買うってこと繰り返していく中で


川や水の重要さって見失われてきたのかなぁと感じました


ここでやってて一つ思い出したこと


最近、岐阜の飛騨古川でサイクリングしたときにガイドさんが言ってたことです


古川には、川にコイがたくさん泳いでいます


景観としてコイを話し始めたのではないということ


そのひとつの理由として、川を綺麗に保とうとする人の「気持ち」を作ることなんだそうです


古川も時代の流れと同じで、人が産業排水を流し、川が汚れたそうです


でも、それじゃいけないって考えて、川をもう一度綺麗にしようと考えました


綺麗にしよう、綺麗にしようって言っても拘束力は弱いのです


だから、コイをはなし、排水を流せば「かわいそう」という感情を人が持つようにすることで


川を綺麗に保つ仕組みを考えたそうです


まさに思考の転換て感じですね


特に僕が思うに、子どもの力が大人を変えるってことが、そこにはきっとあったんじゃないかと




話を戻します


要するに、僕は今日、食べ物を洗ってて川があったらなって思いました


だけど、今の川じゃ、なんとなく洗えないのです


それは汚してきたから


でも使えたら、楽なのです!


自分が口にすると考えたら


人に食べさせるって考えたら


綺麗な川に保たなければならない


って感じました



もし、水道が止まったら

スーパーの野菜がなくなったら


どうしましょう(極論ですが)


そう考えると、野菜をあらったり、食べ物を洗える川は、その風景が残ってるんでしょうね


そして、そういう使い方がもし行えるように川がなっていったら、きっと今度は汚さないようになっていくのかも


そう考えると地元の川はやるなぁって感じですね


川で洗うってことは、農薬とかもNGな感じになっていきますね(でも家庭用だから使うこともないのかも)

だって、川だから川下の人に申し訳ないです


風景を守ることと、昔の時間をかけてやってた意味を考えると、大切なものたくさん失ってきたこと思います


これって、今で言うとってもsocialなことですよね


田舎すげーな!村や集落って社会起業家みたいな(大げさですね)


小松菜一つで、今日は3時間勉強した気分です(笑)


土用の丑の日なのに、葉っぱに感動した夜でした。


あ!うなぎも川繋がりやん!!

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センス

そうセンス!!

一昨日はこの話が夕食中にでました


センスとは何でしょうか?

才能?


じゃあ才能ってことは、もとから自分に備わっているもの?


僕は、昔から「センスがない」と言われ続けてきました


芸術的な面や運動の面、勉強においてもそうです


正直、芸術面では昔から苦手なことだったので最近はやる前から人に任せます


逃げてるということですね




このセンスの話をしている時に、一緒に食事していた大学の院生の方が言われたこと



センスは持っているかいないかではなく、磨くものじゃない?




この言葉、考えさせられました


一番最初に浮かんでしまったのは、できないと決めつけているんじゃないかということ


これは、芸樹的なことでいうなら、ほかに自分なんかよりも上手い絵を掛ける人がいるからとか


きれいなデザイン、面白いデザインが書ける、作れる人がいるからと


他人に見られることに引け目を感じているという気持ちもあるからでしょう




前に、アンパンマンの作者のやなせたかしさんの本を読んでいて書いてあったのですが



やなせさんは、アンパンマンが人気になるまでに色んな仕事を経験されたとありました


それは、絵を描く仕事だけではなく、作曲や舞台の仕事など絵以外の仕事も


でも、どの仕事も初めてであったり、知識がないことでも受け続けたそうです


その際に、自分でその分野を勉強することを続けていたそうです



僕は取り組む前から、センスが無いからと決め付け



精一杯取組むこと、


勉強することから逃げていると感じました








何事も精一杯取り組み、少しでも自分の求めるもの


いいと思う人のものに近づこうとすることが磨くなのかもしれません



それを誰かに見せるためのものなら、相手の立場に立ち考える



誠実に取り組むことこれもひつようなはずです


磨くことと相手の事考えて何かを作る









今は誠実に何事も取り組むという



自分への問いをさせられました




センスの一言では片付けてはダメですね








ここ2週間



自分は進んでいるだろうか?





事業は進んでいるか。




いや、それ以前の問題





自分のコントロールができてない




事業もそうなのかもしれないが、まずは自分の身の回りのこと




そして、スケジュールをしっかりつくり、それに従って動くこと





それができてない



どうしても、自分の楽な方へ




やらなければならないことを後回しにしてしまっている






優先事項はなにか




目標を立て、引き算していくということを確認したばかりだ









一つのことをやり始めるとそれ以外が見えなくなってしまうという自分の特徴


この土日はまさにそれになってしまっていた





ここ最近までは、何も考えずにとにかく興味のあるところや現場に飛び込んできて




充実した日々があった




それは、現場で、見る、学ぶという経験を積むことが必要だったからだ



これは、すぐに自分の経験や知識として話すことができるから実感が沸く







いまは少し変わってきた




コツコツ勉強していく時なのかもしれない


すぐに成果が出てくる、実感するときではなくなったのかもしれない



そのぶん自分は進んでいるのかわからなくなるだろうと感じる




そんな中で、自分をコントロールし忍耐強く計画を進んでいくということが必要なのだろう



今までとは違う



大きな一歩はなくても




次の大きな一歩を踏み出すための基盤を作る時だ