東部ニュ-ギニア陸軍航空隊始末記(1)(改1) | パプアの幽霊部隊のブログ

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初めに

私のブログ名に「パプアの幽霊部隊」という部隊名を何故?つけたのか?                   それは令和2年の現在=敗戦後75年経過、東部ニュ-ギニア戦線に投入されながら誰一人として1953年4月28日作成の厚生省統計上、同地戦没扱いにされていない部隊が存在したまま、収容可能なご遺骨も収容できていない日本国に対して、これでよいのかと、否!と思い、私が名ずけたのです。

 

幽霊部隊なんぞ、この世に存在しませんよ!

この表は南十字星の付録にある東部ニュ-ギニア参戦部隊

陸軍航空隊参加部隊は34個の部隊、真部隊あり、洋部隊あり、襲部隊ありで、指揮系統がバラバラで長年そうなのかわかりませんでしたが、ホランジアに後退予定が米軍上陸でウエワク地区に残置された部隊でした。

私は戦後生まれで東部ニュ-ギニア戦の体験者ではありませんが、写真でしか知らない叔父が同地で戦死していまして公報上の戦没地名のクワイドを調べるために半世紀以上かけて関係資料等を読んで知りえたショクキングな真相です。

私は東部ニュ-ギニア戦で陸軍航空隊の将兵が何名戦没されたのか?日本国の統計上の戦没者総数12万7千6百名のうち、何名が正確なのか?が知りたいのです。

しかし、今では幽霊部隊の死亡者連盟簿が空白で,ご遺族への恩給支給簿が焼却されているならば無理だと思うようになりました。

第1復員局が作成できなかつたものを現在の厚生労働省職員に求めてもできないと思うからです。

 

振り返りますと、クワイドという地名を探し出すために、厚生労働省、県庁や市役所担当者に聞いてもわかりませんという回答!

 

それならば、自分で探そうと思いました。

 

そして、15年前・最初の現地慰霊時に読みたいと思いながら、やつと手にして読んだ「南十字星」。(東部ニュ-ギニア戦について初めて昭和30年に書かれた著書)

第18軍参謀長・吉原 矩氏の著書「南十字星」に東部ニュ-ギニア戦参加部隊一覧があります。

 

奇しくも、群馬県県立図書館から地元の図書館に送られてきました。

身内の部隊は最後は群馬県高崎市の歩兵第115連隊長の指揮下にもありましたので感無量で読みました。

その中の航空部隊は①第12航空地区司令部②第30航空地区司令部③飛行第63戦隊の一部④飛行第68戦隊の一部⑤飛行第78戦隊の一部⑥飛行第208戦隊の一部⑦第25飛行場大隊⑧第41飛行場大隊⑨第47飛行場大隊⑩第48飛行場大隊の派遣隊⑪第51飛行場大隊⑫第22飛行場中隊⑬第23飛行場中隊⑭第24飛行場中隊⑮第33飛行場中隊⑯第86飛行場中隊の一部⑰第2航空通信連隊の一部⑱第5航空通信連隊の一部⑲第4航空情報連隊の一部⑳第6航測隊主力㉑第12野戦気象隊主力㉒第14野戦航空修理廠の一部㉓第14野戦航空補給廠の一部㉔第1航空移動修理班の一部㉕第3航空移動修理班の一部㉖第4航空移動修理班の一部㉗第7航空移動修理班の一部㉘第8航空移動修理班の一部㉙第10野戦飛行場設営隊㉚第11野戦飛行場設営隊㉛陸上勤務第73中隊の一部㉜陸上勤務第81中隊の一部㉝第8師団第9陸上輸卒隊㉞第21飛行場大隊

34個の部隊名が記載されていますが、これらの部隊は前述のように1944年5月ごろまでに第6飛行師団主力=司令部から残置されたウエワク・ブ-ツ飛行場等の部隊でした。

㉔の青の部隊、第1航空移動修理班の一部が参加したという情報のみでした。

一部という意味は班長不在ということだと思います。

 

私が知る

1953年4月28日厚生省作成公式資料には上記の34個部隊9166名戦没のみとされています。下の図です。

 

が、第1復員局から申し受けた厚生省の部隊履歴簿に一部に漏れている部隊がありました。

第2航空移動修理班の一部、第5航空移動修理班の1名、第10航空移動修理班の一部、第6野戦飛行場設営隊の一部、飛行第248戦隊の一部、飛行第28戦隊の一部。

上の図の航空隊戦没者9166名には西部ニュ-ギニア戦没者も含まれています。

上の図は1944年3月ごろまでにホランジアに後退や勤務していた部隊。

上の図は航空隊の戦没者数の細部。

右上の写真を見ますと胸が痛みますね。

上の図は1945年11月5日の第18軍隷下部隊の現況表です。

上の図は1953年に厚生省が作成したた東部ニュ-ギニアの遺体分布図です。ホランジア部隊は西部ニュ-ギニアのゲ二ムで戦没しても東部ニュ-ギニア戦没扱いに。

1 東部ニュ-ギニアに投入された部隊名。

 

根拠資料:幻、ニュ-ギニア航空戦の真相、公刊戦史「東部ニュ-ギニア方面陸軍航空作戦」「西部ニュ-ギニア方面航空作戦」、厚生労働省の部隊履歴簿等。

昭和61年刊行。敗戦後41年後ですよ。

 

昭和42年刊行。敗戦後22年ですよ。

 

 

昭和44年刊行。敗戦後24年。

同上の部隊略歴簿は昭和36年作成ですよ!100%正しくないといけません。

が、漏れている部隊が多すぎますよ!

誰もお役所を信用して調べませんでした。

これらの資料から

①1942年10月から12月迄に投入された部隊

独立飛行第76中隊、飛行第45戦隊、飛行第208戦隊、第22飛行場大隊、第209飛行場大隊、第6飛行師団司令部、飛行第11戦隊、第4航空情報連隊、第2,5航空通信連隊、その他略

一部の部隊を除き幽霊部隊に

②1943年1月から12月迄までに投入された部隊

飛行第14戦隊、第1から第7航空移動修理班、飛行第1戦隊、13戦隊、26戦隊、59戦隊、第8から第10航空移動修理班、第12野戦気象隊、第6航測隊、その他略

一部の部隊を除き幽霊部隊に

③1944年1月から3月迄までに投入された部隊

飛行第63戦隊、その他略

 

2 1944年3月以降、ウエワク飛行場等からホランジャヤ飛行場へ移動した部隊

第4航空軍司令部、第6飛行師団司令部、第14飛行団司令部、教導飛行団司令部、飛行第10、28、33、34、60,61、63、68、75、78、208,248戦隊、独立飛行第83中隊、第7輸送飛行隊、第18航空地区司令部、だい20、22、38,209飛行場大隊、86飛行場中隊、第14野戦航空補給廠主力、第14野戦航空修理廠主力、第4航空情報連隊主力、その他略

3 1944年3月アイタぺ飛行場勤務部隊

    第26飛行場中隊、第4野戦飛行場設営隊、飛行第248戦隊の一部、その他略

最大時の編成部隊は真部隊=第4航空軍直轄部隊、襲部隊=第7飛行師団、洋部隊=第6飛行師団

 

4FA=第4航空軍、6FD=第6飛行師団、7FD=第7飛行師団、4FAは東部ニュ-ギニア派遣陸軍航空隊の最大時の編成。定数500機でした。

話はそれますが、

何故?東部ニュ-ギニア方面に陸軍航空隊の3分の一の兵力が投入されたのかについては、井本熊雄氏著「作戦日誌でつずる大東亜戦争」に詳しく書いてあります。

大本営作戦部内で作戦班長の辻中佐と航空班長の久門中佐が1時間以上の激論を交わし、物別れに終わりましたが、その後、辻班長はガタルカナル島の作戦指導に、久門中佐は事故死、そして、東条首相・陸軍大臣・参謀総長兼務の肝いりで決定し1942年10月13日にラバウルに第1陣として独立飛行第76中隊が着任していました。

 

これが大日本帝国陸海軍大本営作戦部の大誤断の始まりでした!

 

久門中佐の予言とおり(=陸軍航空隊は対艦攻撃用ではない等の正論)に第4航空軍編成完結後わずか24日余りで地上で壊滅状態になりました。

 

1943年8月17日前後の連合軍機によるウエワク地区大空襲です。

動画の画像が陸軍航空隊の被害状況を証明しています。

                       (続く)