敗戦後75年目にして知るフィンシュハーフェンの戦いの意味! | パプアの幽霊部隊のブログ

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 敗戦後75年が過ぎますとフィンシュハ-フェンの戦争経験者は絶無になり、何が真相なのか不明になると思います。一例として、フィンシュハ-フェンという地名。

令和時代の今、日本人に知る人は恐らく、ご遺族と、その関係者のみでしょうね!現地慰霊でも同地へ行く企画を知りません。

1943年9月22日、米豪軍が同地に上陸をして約3か月の激戦が第20師団等との間に行われました。

当時の大本営は第79歩兵連隊の同地に逆上陸した杉野中隊長を新聞報道等で称賛しましたが、真相は大した戦果はありませんでした。

 

詳しいことは防衛省の関係公刊戦史をご覧ください!

 

忘れてはいけないことは

米・豪軍上陸後の8日後に大本営は絶対国防圏を設定したんですよ!同圏の範囲は略。

 

このことの意味することは第18軍はじめ在東部ニュ-ギニアの部隊は

捨て石=絶対国防圏内の防衛準備のための時間稼ぎにされたことを意味したんです。

絶対国防圏の外に置かれて、補給は約束とおりにいかなくなりました。

全部隊を撤退させる船がありませんでした。

 

其れで12万7千6百名以上の犠牲者を出したのです。

 

大本営は同地に大軍を送り込んで同軍を見捨てたのです。

 

敗戦後、責任をとつたのは大本営命令で東部ニュ-ギニアへ派遣された現地の指揮官たる陸軍の第18軍司令官安達二十三中将や第4航空軍司令官=東部ニュ-ギニア陸軍航空隊のトツプ・寺本熊一中将、同参謀長隈部中将のみでした。寺本氏や隈部氏は敗戦直後に、安達氏は1948年9月10日戦犯終了後のラバウルで自決されたのです。

送り込んだ大本営参謀たち・作戦部長、課長、班長は無責任で戦後を生き抜いたのです。

詳しくは世紀の自決をご覧ください!

1例として辻作戦班長という石川県生まれの方は国会議員にまでなられました、今、同氏の著・潜行3千里なるものが売れているらしいですよ。

同氏企画の作戦で南海支隊同地戦没者の骨拾いをされたのでしょうか?

 

フィンシュハ-フェンの戦いで第20師団将兵や船舶工兵隊等の将兵も死力を尽くして戦われたことは真相です。

 

戦場は熱い、キツイ、ひもじい、痛い、死の恐怖に満ち溢れていたんです。当時は軍秘や報道統制やらで何ひとつ真相が報道されませんでした。

 

今の令和時代は良い時代だと思いませんか?