今日10月6日は久門有文大佐のご命日! | パプアの幽霊部隊のブログ

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 開戦から、1年も、たたないうちに、山本連合艦隊司令長官の開戦前の予言・予想とうりに(対米戦は、やれと言われればやりますが、半年か1年しか確信が持てません)、帝国海軍は惜しくもミツドウエイ-で大敗北をきし,それから、わずか2か月後には米軍は日本軍の設営隊しかいないガタルカナル島へ上陸し、反攻作戦を開始していましたが、大本営陸海軍部は、そうとは判断していませんでした。そういうころ、久門有文当時中佐・大本営陸軍部作戦課航空班長は1942年10月ごろ、千島方面の視察に行かれて10月6日択捉島付近で消息を絶たれて、同中佐は再び、帰らなかつたと公刊戦史にあります。

 

同中佐は辻政信作戦班長と同期で陸士第36期生でした。

その後の10月24日、25日のガ島総攻撃の失敗の影響により

東部ニュ-ギニア陸軍航空隊始末記(1)で述べましたように、同中佐亡き後に陸軍航空隊が東部ニュ-ギニア方面に派遣されました。

すなわち、南方軍および関東軍から戦闘2個戦隊、軽爆撃1個戦隊、飛行第76独立中隊等を第8方面軍の指揮下の入れました。

そして、11月27日に第6飛行師団を編合して第8方面軍の指揮下に入れました。同月末の南東方面=ソロモンやニュ-ギニア方面の陸軍機は139機になりました。

 

派遣の理由は?

海軍航空隊がソロモン方面で苦戦中なので、陸軍航空隊がニュ-ギニア方面で支援すべきだということでした。

 

ところで、その前の

1942年11月中旬ごろの南太平洋方面の日米航空兵力は日本海軍機・基地航空100機に対して米海軍機はソロモン方面に100機、ニュ-ギニア方面に100~150機で、米小型機の活動範囲はマダン、ツルブ以南でした。

 

その様な重要な戦況の時に、大日本帝国の運命を担う東条首相は最初は久門中佐の案を支持していたんですが、陸軍航空隊を同地に投入することに変心し、予想とうりに痛手を受けることになつたんです。

すなわち、

ガタルカナル島の奪還はかなわず、撤退、南海支隊は海岸に向けて後退中の戦況でした。その後、東部ニュ-ギニア防空はならず、南海支隊はほぼ壊滅し、その後の作戦も正論を採用せずに上手くいかずに絶対国防圏も夢と消え、惨めな敗戦の連続へ、そして大日本帝国の壊滅と悪循環していきましたね!

 

正論を採用されずに無念の思いで北洋で戦没された

久門大佐のご冥福を心からお祈りします。

思えば、

陸軍航空隊は1942年5月22日に飛行第64戦隊長・加藤建夫中佐をベンガル湾方面で失い、10月には久門中佐を失い、貴重な逸材をなくしていました。