アタクシの幼少の砌のお話しです。
子供の頃は曾祖母が健在で、隣町の郊外にある曾祖母の家によく遊びに行っていた。
その近くには、きれいな沢が流れていて、カイボリで雑魚や小エビを捕まえて遊ぶのに最適だった。
流れもきつくなく、水深も15cmくらいだったので、子供だけで遊びに行っても安心だった。
まあ、危なかろうが、危なくなかろうが、あの頃の僕らはへっちゃらだったけどね。
そんなある時、曾祖母達が、今度下の沢がキレイになると話していた。
それから間もなくブルドーザーや工事用機械が入って沢には近づけなくなってしまった。
そしてあれよあれよという間に、沢は三面共に真っ白いコンクリートで固められた用水路のようになってしまったのだ。
信じられないことに、そんな沢を見て近所の大人達は、「キレイになった」と喜んでいたのである。
僕らはがっかりしたものの、まだまだ遊べる場所は他にも沢山あったので、それほど落胆することはなかったけどね。
それにしてもキレイの定義というものは不思議なものである。
自然が残っている場所に住んでいる人達ほど、何故かコンクリートで護岸されたり、田舎道がアスファルトで舗装されると、みんな「キレイになった、キレイになった」と喜ぶのだ。
あれ以来、あの沢に行くことは無くなった、そしてこれからも行くことは無いだろう。
あのまま自然を残してくれた方が、よかったんだけれど、地元の人達は、そのキレイの定義が違ったんだよね。
だからといって、それを悪いことだと言いきれなかったのが、当時の政治でもあったのである。