キレイの定義 | ぼくはグラスのふちをまわる

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昭和40年代の思い出や、酒場についてゆる~く語ります。

アタクシの幼少の砌のお話しです。


子供の頃は曾祖母が健在で、隣町の郊外にある曾祖母の家によく遊びに行っていた。


その近くには、きれいな沢が流れていて、カイボリで雑魚や小エビを捕まえて遊ぶのに最適だった。


流れもきつくなく、水深も15cmくらいだったので、子供だけで遊びに行っても安心だった。


まあ、危なかろうが、危なくなかろうが、あの頃の僕らはへっちゃらだったけどね。


そんなある時、曾祖母達が、今度下の沢がキレイになると話していた。


それから間もなくブルドーザーや工事用機械が入って沢には近づけなくなってしまった。


そしてあれよあれよという間に、沢は三面共に真っ白いコンクリートで固められた用水路のようになってしまったのだ。


信じられないことに、そんな沢を見て近所の大人達は、「キレイになった」と喜んでいたのである


僕らはがっかりしたものの、まだまだ遊べる場所は他にも沢山あったので、それほど落胆することはなかったけどね。


それにしてもキレイの定義というものは不思議なものである。


自然が残っている場所に住んでいる人達ほど、何故かコンクリートで護岸されたり、田舎道がアスファルトで舗装されると、みんな「キレイになった、キレイになった」と喜ぶのだ。


あれ以来、あの沢に行くことは無くなった、そしてこれからも行くことは無いだろう。


あのまま自然を残してくれた方が、よかったんだけれど、地元の人達は、そのキレイの定義が違ったんだよね。


だからといって、それを悪いことだと言いきれなかったのが、当時の政治でもあったのである。