コリコリ…… 第三十九回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 女性なら、他にも出会うことはあるだろう。とにかく小説を書いて、現実をしっかり見続けていこう、彼はそう心に誓った。

 次の週の診察は、西京病院の先生に変わっていた。西京病院には大桃さんがいるのだが、彼女と会った時も、さほど気まずい気持ちにはならなかった。向こうの方からニコリとしてくれて、頭まで下げてくれた。精一もニコリと笑って、頭を下げた。理栄との別れの原因を作った憎き相手なのだが、こんな所でそういうことを言い立てても仕方がない。

 それから一ヶ月ほどの時がたった。精一は職安に通って、仕事を探し始めていた。まだ面接には一度も行ってはいない。担当の水上さんという男性職員と色々話をする段階にいた。

 担当のケースワーカーは、もちろん大桃さんではない。田村さんという年配の女性が担当になった。その人に職安に連れて来てもらったのだ。

 さて、精一は、再び小説を書くことを生活の中心に置いていた。西京病院のデイケアに通うことはしなかった。天王寺の図書館にノートを持って行って、閲覧室でシコシコ書いている。たいした小説ではないのは分かっているが、元々自分がさほどたいしたものは書けないと分かっているから、そんなことは気にしない。とにかく書く、続きを書く。書いて、書いて、最後まで書く。そういうつもりで書くことにしていた。

 そのようにすんなりと小説執筆が運ぶと、次第に気持ちの整理がついてきた。理栄の面影はずっと頭の中から去りはしないが、かといって、切な過ぎて泣くということはなくなった。

 夕方、図書館での執筆を終えて家に帰ると、彼に電話がかかってきたことを母が伝えた。電話の主は、精一がいつも通っている、あのうどん屋のおばさんだった。

 一度おばさんの名刺を貰ったことがあるので、それを見て電話をかけた。するとおばさんが元気な声で店の名を叫んでいる。いつもセイさんと呼ばれているので、それを述べると、

「ああ、あんたか。ちょっと、今から来えへんか?」と言う。

 おばさんが、どうしても今日話したいことがあるんやと、彼に告げた。

「話したいことって、何?」と訊ねると、

「それは来てくれんと分からん。ちょっとでええねん。用事さえすんだら、すぐに帰ったらええし」と言う。

 大体、おばさんとこうして電話でしゃべったのも初めてだし、おばさんが彼に話したいことがあると聞くのも初めてだ。

 母に、なるべく早く帰って来ると言い残して、自転車を走らせて、うどん屋まで行った。

 酒を飲む客が三人ばかり、カウンター席に並んでいる。ガラス戸を開けると、おばさんが、「いらっしゃい」と明るい声を出した。

「取り敢えず、焼酎の水割りか?」と訊ねるので、「それでお願いします」と答えた。

 実は今日はあまり酒を飲む気にはならなかったのだ。小説がいい所に来ていて、今晩は結構根を詰めて続きを書かねばならないと考えていたところだった。

 しかしおばさんの出してくれた焼酎の水割りを飲み始めると、途端にそんなことを忘れて、二杯、三杯と杯を重ねていった。

 酒を飲むと、何か食べるものも口に入れないといけないので、まぐろの山かけやカレイの煮つけなどを頼んで、箸でついばんでいた。

 おばさんが不意に、

「あんた、なんでここに呼ばれたんか、訊けへんのか?」と訊ねた。

 そう言えばそうだ。彼はここに電話で呼び出されたのだ。

 精一は顔をあげて、

「何かご用でもあったのですか?」と訊ねた。

「用があるから来てもらったに決まってるやろ。わたし、これでも、一人で店を切り盛りしてんねんで。用もないのに人を呼び出すやなんて、そんな無駄なことせえへん」

「はあ、すみません。飲んでるうちに、つい呼び出されたこと忘れてました」

「あんたは呑気でええ。その呑気さがあるから、女の子にモテるんやろうな」

「ぼくなんか、モテませんよ。彼女がおったけど、フラれてもうたし」

「そうか。フラれたんか。ほんまにフラれたんかどうか、今から確かめようか?」

「そんなん、どうやって確かめるんですか?」

 おばさんは不意に後ろを振り返って、

「入っといで」と呼ばわった。