コリコリ…… 第三十八回 | 中川忠の小説です。

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中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 理栄は小さな声ではあるが、はっきりした声で、

「あんたって、最低やね」と言い切った。

 そうだ、最低だ。何の言い訳もできない。自分の彼女とのセックスのことを、他の女性に告げ口するというのは、到底許されないことだろう。たとえ大桃さんの誘導尋問があったとしても、その質問には断固として黙秘の姿勢を示すべきだった。

 それに比べると、大桃さんと抱き合ったことくらい、たいしたことではなかったのだ。大桃さんは、ああいう気の強い性格だから、彼と抱き合おうという冗談くらい、平気で強行するだろう。それに対して精一が拒否できないことは、理栄も分かっているのだろう。

 しかし理栄のお道具のことは駄目だ。たとえどんな巧妙な誘導尋問があったとしても、そのことに関しては何もコメントしてはいけない。

 理栄は、「それじゃあね」と言って、あっさり電話を切ってしまった。精一は、階段に腰かけたまま、しばらくじっと顔を俯けていた。

 翌日になった。精一は、取り敢えず支度をして、自転車でクリニックに出かけた。デイケアに行くためだ。

 デイケア・ルームに入ると、いつも理栄が座っている四人掛けのテーブルに、彼女の姿はなかった。部屋の反対側のガラスの向こうを見ると、理栄が座って何か書き物をしていた。精一は立ったまましばらく彼女の頭頂部を見つめていたが、いくら見ていても、その顔があがってこちらを見返すことはなかった。

 岩田さんの朝の挨拶があって、朝の会が恙なく終わった。精一は、岩田さんの隣りに座っている理栄の顔を切なげに見ていたが、彼女は彼に目を向けることすらなかった。

 自由時間になったので、立ち上がって、思い切って理栄のそばに行き、「おはよう」と挨拶をすると、理栄は初めて彼の方に目をやって、「おはよう」と返した。

 しかしその目には何の感情もこもってはいなかった。ただ反射的に挨拶を返しただけといった様子だった。少なくとも、愛情を持っている人に対する目つきではなかった。

 その日一日、精一は針の筵に座っているも同然だった。事あるごとに理栄の顔を伺って、何とか取り付く島はないだろうかと試みてみたが、それはもはや無理だということが、その日のデイケアのスケジュールの終わりくらいにははっきりした。

 理栄との恋はついに終わった。それはそうだ。彼女とのセックスの具合のことを、他の女性に洩らしてしまうなんて、最低のことだ。こんな男とはもう付き合いたくないと、どんな女性でも思うことだろう。

 その日の夜はもう電話をしなかった。スーパーで紙パックの酒を買ってきて、それを何のあてもなくグイグイ飲んだ。

 翌日は二日酔いでなかなか目が覚めなかった。もはやデイケアに行く気はなかった。クリニックに診察に通うのも、もうやめておこうと考えた。理栄はクリニックのスタッフだから、時々会うことになるだろう。彼女の顔を見たら、切なくて切なくて仕方がなくなる。

 二日後、お薬がなくなったので、クリニックに診察に行った。今日を最後の診察にしようと決めて来た。幸か不幸か理栄と出くわすことはなかった。名前を呼ばれて、診察室に入って、先生に、西京病院に移りたい旨を述べた。

 先生にはもちろん、理栄とのことは打ち明けてある。このように破局を迎えたことは言ってなかったので、理由とともにそれを述べると、「それも仕方がないなあ」と優しく慰めるように言ってくれた。

 理栄の道具のことを大桃さんに洩らしたとも言ったのだが、先生は彼の前で片手をひらひらさせて、

「まあ、しゃあないやん。盛岡さんかて、完璧な人間ちゃうねんから、そんな不都合なことしてまう時がある。それよりもこれからのことを前向きに考えるようにせなあかんで。思いつめて妙なことをするのは、先生もそうやけど、向井さんかって、ほんとは望んでへんやろうから」と真面目な顔をして述べた。

「妙なことって、自殺かなんかですか?」

「そうやな。自殺なんかしてくれるなよ。もう何もかも振り捨ててはっきり言う。この難局を切り抜けたら、盛岡さんの未来はきっと明るい。小説、書いてるか?」

「この頃あんまり書いてません。書く気になれへんで」

「書かなあかん。書かなあかん。盛岡さんをこの世に繋ぎ止めてる唯一のものが小説やて思うから。その基本を忘れたらあかん」

 なるほどそうなのかと、精一は少し顔を俯けたまま頷いた。長いこと書こうとして書けないでいた小説が、三十歳になって書けるようになったからこそ、現実を見て生きて行こうという意気込みが湧いてきたのだ。その意気込みがあったから、理栄とも仲良くなることができたのだ、きっと。