「それにしてもおにいさん、今日はたくさん飲むねえ」とおばさんは、笑いながら感嘆している。
「ぼく、なんか、吹っ切れてん。ここでパーッって派手に飲んで、明日から再出発や。ぼく、書くぞう。それまで隠してたことも全部書く。何でも書く。あとで、いや、こんなん書いたらあかんやんっていうとこがあったら、そこは削る。それでええやん。小説家の本当の仕事は、削りまくることにあるんかも知れんから。書くことよりも削ることやな。そやから頑張るよ。さあ、おばさん、八杯目を入れて。この八杯目で最後にするから」と注文すると、おばさんは、何のためらいもなく、焼酎のお湯割りの八杯目を精一の前に置いた。
精一は、全くなんでもないかのように、その八杯目を、軽く、ゴクゴクと飲み始めた。やがてグラスはすっかり空になった。
とはいえこんなに酒に酔っ払っていては、家に帰っても冷静に小説など書けるはずがない。ここはさらにパーッといきたいとこだったが、彼は他に遊ぶ場所なんか知らない。特にこの欲求不満になった下半身を満足させるような遊び場所となると、彼の知識も金も皆無だった。
そんなことをあからさまにおばさんに訊ねるわけにもいかず、それでいて元気に溢れている精一は、
「もっと他に遊ぶとこありませんか?」などと訊ねている。
「おにいさん、遊ぶとこいうても、そんなにお酒飲んでもうて、遊ぶどころやあれへんやろ。はよ、家帰って、休んだらええで」と諭すように言った。
確かにそうかも知れない。こんなに酔っ払っては、遊ぶこともままならないだろう。家に帰って休んだ方がいいのかも知れない。
それで精一はおばさんの言いつけに従って、そのまま家に帰った。自転車はフラフラだった。今の交通法規だったら、きっと警察に捕まっているだろう。そんなフラフラになりながら、精一は、大きな声で歌をがなり立てながら走った。
あんなに、遊びたい、遊びたいと焦っていたのに、家に帰って、自分のベッドの中に入ると、まるで赤ん坊のように眠りこけてしまった。
そのまま夜のご飯も食べずに、彼は朝までひたすら眠ってしまった。母はとても機嫌が悪い。
「仕事もせんで酒のんで。そんなことしててええと思うてるんか」と朝っぱらから叱責された。
確かに彼は、昼からどころか、どんな時間でも酒なんか飲んでいる資格などない。何しろ精神病院に放り込まれていた患者なのだ。まともな人権すらない。おとなしく家にいて、出かけるとしたら、職安に出かけて、どうか仕事を下さいと、職員に拝み倒すのが、今最もやらねばならないことなのだ。
あの日理栄とは結婚することを約束した。その時彼がふと頭に浮かべたのは、彼には職がないということだった。
結婚するとなったら、男の方に職がないというのは、許されない話だろう。理栄にはちゃんとした職がある。理栄の稼ぎだけで、生活していけないこともないだろうが、精神障がい者であるという偏見に晒されるわけだから、体裁上でも何らかの職に就いていなければならない。
もちろん、彼が書いている小説は、売り上げをあげるほどにはなっていない。いやでも何でも、職に就く必要がある。
あの日は絆を結ぶことに忙しくて、職のことには話が及ばなかった。けれども、彼が全く職に就くつもりがないとなったら、結婚の話は成立するものではないだろう。
職に就くこと自体に、精一には全く抵抗はなかった。もし理栄とこうしてお付き合いをしなかったとしても、彼は間もなく何らかの職に就くつもりだった。そんなことは当たり前のことだとすら考えていた。
しかしそれは今すぐでなくてもいいだろうと、彼は考えた。
理栄のお兄さんが事故死をするという、とんでもない事態が起こった直後のことだ。今の理栄には、精一の職のことなど、考える余裕すらないことだろう。
もし職に就くとしたところで、理栄はケースワーカーという仕事をしている。その仕事はきっと、仕事を見つけるためのツテをたくさん持っているものに違いない。ことによると、彼女はもう既に彼の仕事の目途くらいつけているのかも知れない。
だから今職安に行って、勝手に仕事を見つけることは得策ではない。
まず理栄のハイツに電話をしてみたが、やはり留守番電話になったままで出ない。どうして向こうから電話をかけてくれないんだと考えると、怒りが湧いてくるのを覚えた。