ここまでは順調だった。これからも順調だろうと思っていたある日、思いがけないことが起こった。理栄の郷里に住む兄が、突然事故で急死してしまったのだ。
これには理栄が真っ青になった。当然のことだ。彼女はデイケアに来なくなり、ハイツにもいなくなった。全く会えないわけだ。
精一は一気に鬱の状態に落ち込んだ。先生は、何かあったのかと訊ねるのだが、本当のことは打ち明けられない。主治医であるはずなのに、調子が悪くなった理由を言えないというのは、精一にとってきついことだった。
だからといって、迫田に打ち明けるわけにはいかない。理栄から、一切誰にも言ってはいけないという禁令を貰っているのだ。この禁令を破ることは、二人の関係そのものを破壊することに等しい。
それで精一はデイケアに行かなくなった。そして一日一回、昼間の時間に理栄のハイツに電話をかけた。そして何らかのメッセージを入れておいた。
家にいたままではどんどん鬱がひどくなるだけなので、時々ブラブラと駅前まで出て来た。そして時々、例のうどん屋に足を運ぶことになった。
豊岡生まれのおばさんは、陰鬱になって酒を飲んでいる精一に、無理に話しかけてはこなかった。時々天気の話をする程度で、後は自分の作業に没入していた。
そんなある日、精一はふとおばさんの顔を見上げて、
「ぼく、好きな人がおんねん」と思い切って言った。
するとおばさんは精一の顔を真っすぐに見て、
「それはよかったやん。あんたみたいな若い子は、好きな人の三人や四人は作らなあかん」と言う。
「一人やで。ほんで、ぼく、その一人のこと、本気で好きやねん」
「あんたみたいな子が、浮気な気持ちで女の子好きになることあれへんくらい分かってる。ほんでもう、告白したんか?」
「告白どころか、もう仲良くしてる」
「ほうかいな。ほんだら、もう、片思いやあれへんねんな。幸せの絶頂いうとこやな」
「ところがそうでもあれへんねん。この頃会ってへんねん」
「何で? 喧嘩でもしたん?」
「喧嘩なんかしてへん。彼女のお兄さんが事故で急に亡くなって、彼女、田舎に帰ったままになってて、それで会われへんねん」
「そうか、事故死か。それは、彼女、ショックやろなあ。あんたにはどうしようもあれへんしなあ」
「そうやねん。ぼくなんか、何の役にも立てへんねん。彼女の田舎の電話番号も知らんし、第一彼女の田舎がどこなんかも知らん。ぼくなんか、全く関係ない他人やんか」
「そんなことあれへんよ。いざとなったら、あんたのとこに頼って来るから、それまで、辛抱強く待っとき」とおばさんは励ましてくれる。
おばさんはそれ以上立ち入ったことは聞かない。その女の人が何をしている人であるとか、何とか。
精一は少し気持ちが軽くなった。それでおばさんに、
「こんな寂しい時は、何したらええんやろか?」と相談を持ちかけた。
おばさんは、
「こういう時こそ、小説書くんやないの。あんたの小説は、そんな時のためにあるんやろ?」と言った。
なるほどそうだ。理栄のお兄さんの事故死騒ぎ以降、彼は、あんなに好きだった小説を書くことをやめていた。これではいけないと、彼は真面目に考えるようになった。
おばさんは、さらにこう続ける。
「苦しい時に小説を書いて、その苦しさを少しは和らげることに役にたてへん小説やとしたら、それはほんとうにあんたが書きたいと思うてるもんとちゃうと思うで」と斬り込んできた。
精一は今、理栄の存在が何よりも大事だ。そんな大事な人のことを、ぜひ小説に書くべきだと、本気で考えた。肖像権も何もあったものではない。あとで、「こんなこと、書かんといてえなあ」と言われたら、バッサリ没にすればいい。
うどん屋で満足するくらい酔っ払うことができたら、家に帰って、理栄のことを赤裸々に書いてやろうと決意したのだ。