禁煙妄想 第十回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 妻はぼくの行くところならどこでも行ってくれる。ぼくたちはまるで生まれた時からずっと一緒の空気を呼吸しているみたいな夫婦だ。そのへんの兄妹よりも親しい。

 ぼくたちは早めに夕食をすませて近江八幡の駅の方に歩いて行く。妻が、「チュンちゃん」と呼びかけるので、ぼくは「何だい」と答える。

「チュンちゃん、たばこ、欲しくない?」

「たばこ? とんでもない、たばこなんか金輪際顔を見たくないね」

「随分強気ね。でもこんな不安な時はたばこでも吸って一服したいんじゃない?」

「駄目だ、駄目だ、そんな誘惑を口にするでない」

「変な言葉遣い。夏目漱石の影響ね」

「夏目漱石は明治時代だから、こんな江戸時代みたいな言葉遣いはしないよ」

「でもやっぱり変だわ」

「何が?」

「あなたも変だって言ったでしょう? あなたが禁煙を始めてから変なことばかりが起こる」

「誰にでもあることなんだろう」

「フフフ、こんなことが誰にでもあったら、世の中混乱してしまうわ」

「それでなくても既に世の中は混乱しているよ。ぼくの頭の中くらいが混乱しても、何の影響はない」

「チュンちゃん、頭、混乱しているの?」

「いや、至極平静だよ」

「混乱しているって、今言ったじゃない」

「ハハハ、混乱している頭自身には自覚症状はないものなんだ」

「う~ん、難しいわ」

 ぼくと妻はいつの間にかあひる銀行の前に立っていた。

 

「変な名前の銀行ね」と妻が言う。小さなバラックのような建物の前に二人はいる。ドアの右横に縦書きで『あひる銀行』という看板がかかっている。

 この頃は小さい銀行は軒並み大きな銀行に吸い取られ、吸い取った方の大きな銀行ももっと大きな銀行に吸い取られて行く時代だ。なのに何だ、このバラックのような建物の小さな銀行は?

 真夏だから夜の六時といっても真昼のように明るい。目抜きどおりには車がブンブン行き交う。ワイシャツを着て背広を片手に持つサラリーマンたちが行き交う。

 何か暗い出来事が起こりそうな雰囲気ではない。だから夏はいい。暑いのは困るが、外がいつまでも明るいというのは精神的に心丈夫だ。

 あひる銀行はもうしまっているようだ。カメラマンはあひる銀行の前に立つぼくたち夫婦を様々な角度から撮っている。今まで迷惑以外の何物でもなかったカメラマンが今はいとおしい。

 閉まっていたはずのあひる銀行の扉が突然開いて、毛皮のコートに毛皮の帽子を被ったロシア人のような男が出て来る。ぼくたちを手招きしている。

「ここは銀行ですか?」と男の近くまで行ってぼくがたずねる。

 男は顔の大部分を覆うほどの大きなサングラスをかけた顔をぼくの方に向ける。だが何も言わない。

「あの、すみませんが、暑くはないですか?」とぼくは思わずたずねてしまった。すると男の体から急激に湯気のようなものが立ちのぼり、一分もしないうちに男は蒸発して消えてしまった。あとにはロシア人みたいな毛皮のコートと毛皮の帽子が残っているだけだ。

 カメラマンはその一部始終を撮影していた。今日はきっと凄い視聴率を取れることだろう。