禁煙妄想 第十一回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 とはいえぼくたちはボーッと立ちすくんでいるわけにもいかない。一人の立派(だと思える)な人間が蒸発して消えてしまったのだ。何かの殺人事件かも知れない。そうするとぼくたちは重要な証人になるわけだ。このまま放っておいて逃げ出したりしたら、重要参考人に仕立てあげられるおそれさえある。

 でも――とぼくは考える。テレビで今日放映されるんだから、まさか今の珍事をぼくたちの責任にされることはなかろう。

 このように頭の中で色々と考えていると、突然耳のそばで「チュンちゃん!」と叫ぶ妻の声がきこえて、ぼくは思わずわきに飛びのきそうになるくらい驚いた。態勢を立て直して妻の方を見ると、妻はあひる銀行のバラックの上の方を指さしてポカーンと口を開けている。

「あれは……何?」

 見ると四角な黒い箱があひる銀行の屋根の上に浮かんでいた。もちろん何か分からない。

「おい」とぼくはカメラマンを振り向く。何故かこういうことにかけてはカメラマンは専門ではないかと思ったからだ。いや、そんなことは思わない。ただの反射神経だ。たずねられて分からないから別の人にきくという。

 カメラマンは相変わらず無表情のままぼくたち二人を撮っている。この場合ぼくたちを撮るよりあの黒い箱を撮った方が映像的価値は高いだろうにと、ぼくはつまらぬことを考えている。

 黒い箱はだんだんとぼくたちの方に近づいて来る。冗談じゃない、あんなものが頭の上に落ちて来たら死んでしまうではないか。ぼくは妻の手を握って「速く!」と急き立てる。妻は「ちょっと待って、サンダルが脱げたからはいているの」と言ってぼくの手を振り放し、盛んにサンダルの紐をいじっている。「おい、そんなものは手に持って走るんだ!」と言うと、妻は「そうね」と納得してぼくの手を握って、ぼくより先に走り出した。

「ちょっと待ちなさい、ちょっと待ちなさい」と自転車の二人乗りを見つけた警察官のような声がきこえる。

 見ると箱の側面の中央にいつの間にか丸い穴があいて、そこから夏目漱石がメガホンを持って手を振っている。

「あっ、夏目漱石だ」と妻も気づいて、先に立ち止まった。ぼくは妻の踵に蹴つまずいて、一メートル先まで飛んで行った。

「おい、怪我はないか?」とメガホンを持った夏目漱石が心配する。妻はこちらを振り返って不思議そうな顔をして「どうしたの?」とたずねる。

「どうしたもこうしたも……」と文句を言おうとしてやめる。妻には何一つ偽りはない。彼女はそうした人だ。それしか取り柄がない人だとも言えるが、人間の取り柄の中でも『何一つ偽りはない』という取り柄は最高の取り柄だ。彼女や彼女を褒めるぼくを笑いたい奴は笑え。そんな奴はきっと今際の際で鬼にこう囁かれる。「随分意地悪をしたもんだな。これでお前も立派な仲間だ」と。

 

 黒い箱があひる銀行の前に着陸する。箱をよけるようにして二人の若いサラリーマンが通って行く。箱をちらりと見やっただけで、たいした注意も払わない。

 おい、おい、兄ちゃんたち、それはないだろう、歩道にいきなり大きな黒い箱が降りて来たのに、それを無視して通り過ぎるなんて、そんな無関心はもはや無関心ではない、魂の欠落だ、胴元の破産だ、世界の終末だ。

 その上箱からフロックコートと山高帽を身につけた夏目漱石が「やあやあ」と言いながら出て来たのだ。たとえ忙しいとしても、視線くらいはこちらに向けろ。

 待てよ、これはやはりたばこの禁断症状なのか? ぼくは妄想を見ているのだろうか、と妻にたずねようとしたら、妻はもう夏目漱石と握手をしていた。

「お体の具合はいかがですか?」

「相変わらず胃は痛みますが、まだ死ぬほどじゃありません」

「この黒い箱は何ですか?」

「いや、ちょっとした乗り物で。奥さんもお乗りになりますか?」

「いえいえ、遠慮しておきます」とぼくは妻が答える前に話に割り込んだ。

 やはりこれは妄想ではないとみなしておいた方がよさそうだ。

「そうですか。それは残念ですね。ところであなたは毛皮のコートを着たロシア人に会いませんでしたか?」

「ロシア人なら急に溶けてなくなってしまいました」と妻が答える。夏目漱石の目がギロリと光る。これは困ったことになるのではないかとぼくは心の中で警戒したが、夏目漱石は「はあ、そうですか」と言いながらポケットからたばこを取り出した。

 ぼくは素知らぬ顔をしてたばこを吸う夏目漱石を横目で見ている。

 夏目漱石は吸い終わったたばこを路上に投げ捨てる。と思ったら、たばこは地面に落ちる前に消えてなくなった。便利な携帯用灰皿だ。

 夏目漱石は「さあ、行きましょうか」とぼくたちを促す。

「どこへ行くんですか?」

「『扉』の向こうに決まってるじゃありませんか」

「そんなこと決まっていませんよ」とぼくは抵抗する。

「あなたは禁煙なさっておいでですね?」と夏目漱石は切り口を変えてくる。

「はあ」

「ならば『扉』の向こうに行く義務があります」

「わたしは行ったらいけないの?」と妻が不安げにたずねる。

「奥さんはこの人にはなくてはならない人だと、世界中で認められている人ですから、この場合は特例で、ご同行を認めます」

「やったあ! よかった、チュンちゃん」