禁煙妄想 第九回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 ぼくと妻は安土城に出かける。ぼくは非常な織田信長ファンなのだ。

 実際織田信長は強い運を持っていた。野心の少しでもある男ならば、誰でも一度は織田信長に憧れるものだ。

 自分を神と同等のものと見なす。そして周囲の者たちもその判断を認める。男たるもの、生まれた限りはそういう地位に立ちたいと願うものだ。

 まあ、それは傲慢な夢というものだ。そんな傲慢な夢に浸るより、こうして仲の良い妻と一緒に時を過ごす方がはるかに幸せだ。

 月並みな記述だが、本当のことというのは月並みなものじゃないかなあ。

 気味の悪い石の階段が上の方まで続いている。「上がろうか?」と小さな声で妻を促すが、妻は慌てて手を振って「やめる」と答えた。

 妻が拒絶する気持ちがよく分かる。霊というものを見たことのないぼくでもあまり歓迎できない光景だ。

 日差しを避けるためにタクシーに乗り込む。

 カメラマンはタクシーには乗り込まない。乗り込まれても困る。こちらは彼の存在を歓迎していないから、別にいなくなっても構わない。だから平気な顔をして置いてけぼりをくらわす。

 心優しい妻は「あんな暑いところで……」と呟くが、暑ければプールにでも行ったらいい。

 そんなカメラマンは、ぼくたちが近江八幡のホテルに帰ると、もう玄関口に立ってぼくたちを撮影している。ただものではない。ただものではない、というより、この世のものではないのだろう。

 たばこの祟りか……。

 フロントに行って鍵を貰おうとしたら、背の高い若い男の従業員が「あなたは人生について考えたことがありますか?」とたずねる。

 もちろんぼくはいつもいつも人生について考えている。だが今日初めて会ったばかりの見ず知らずの若い男にこんなことをきかれる筋合いはない。さてはこれは部屋の中に寝ている夏目漱石の差し金だなと直感して、「夏目漱石はどこに行かれましたか?」とたずね返してやった。

 若い男の従業員はきょとんとした顔をして、「今は夏目漱石じゃなくて、野口英世の時代なんですが」と答える。

 小癪な奴だ。

 

 部屋に帰ると夏目漱石の姿はない。『水無月の墓』の上にメモが置いてあって、「この本はなかなか面白い」と書かれてある。おそらく夏目漱石の手になるものだろう。その下に数字が書いてある。おそらく携帯の電話番号だろう。

 ついに夏目漱石も携帯を持つようになったのかと感服していると妻が、「電話かけるの?」ときく。

「どうして電話なんかかけるんだ? 夏目漱石は偉い人だから、ぼくなんかには用がないだろう」

「でも、あの様子じゃ、ひどく困っているみたいだったわ。あなたに助けを求めているのかも知れないわ」

 そういえば胃はよくなったのだろうか、とぼくもさすがに心配になる。

 ぼくはメモにあった番号に電話をする。

 長い間コール音を鳴らしたが出ない。留守番電話にもならない。もう、いいや、またあとでかけ直そうと思ってボタンを押そうとすると、「ちょっと待って下さい」と突然若い女性の声がする。ぼくは反射的に「はい」と答えたが、何が何やらさっぱり分からなかった。

「あなたはどなたですか?」と女はぼくにたずねる。どうやら夏目漱石は間違った番号を書き記したようだ。ぼくは「あっ、どうもすみません」と謝ると、相手は「電話を切らないで下さい」と大きな声で依頼する。ぼくがまた反射的に「はい」と答えると、女は「あなたは正しい番号にかけたのです」と言う。

 ぼくはやっと気持ちが少し落ち着いたので、「ぼくは天王星べんべんと世間で言われている男ですが、あなたはどちらさんですか?」とたずねる。

「わたしは『扉』に関係する者です」

「何の扉ですか?」

「それはお答えできません」

「あのう、もしかしたら夏目漱石先生と何かご関係があるのですか?」

「あるかも知れません」

「はあ」

「あなたは今晩の六時はお暇ですか?」

「でも、今ぼくたちは旅行中で……」

「近江八幡駅前のあひる銀行の前に来ていただければいいのです」

「駅前にそんな銀行があるんですか?」

「あります」

「そこに行けば何かあるのですか?」

「どうかそれはおききにならないでいただきたいのです」

「妻を一緒に連れて行っていいですか?」

「奥さんは是非同伴していただきたいのです。それが条件と申し上げてもいいくらいで」

「でも、何だか怖いですね」

「あなたにはテレビカメラがあるじゃないですか」と女は突然くだけたものの言い方になる。「もし何か悪いことがあったら、同時に日本中に放送されるわけだし、犯人も丸分かりだし、大丈夫でしょう?」

 確かに大丈夫だろう。だが本当に大丈夫だろうか?

 ぼくはドアを開けて外にいるカメラマンに「おい、お前、六時から二人で出かけるが、ついてきてくれるだろうな?」とたずねる。

 カメラマンは無表情ながらコクリと一つ頷いた。

 ぼくは「行く」と言って電話を切った。