鋸山からの帰途、 会ったことがなかった、
母方の祖父への認識違いを発見しました。
祖父は、四国88か所の巡礼をしたそうです。
他にも、全国を回ってきたとかで、その話から、
放蕩三昧をした人だと思い込んでいました。
ところが、従兄が地元の教師となって、
思いがけない事実を知ることになったのでした。
祖父の家は、大きな材木商でした。
祖父に助けて頂いて今日がある、と、
多くの方にお礼を言われたのだそうです。
それを聞いたあとも、私の中の、
祖父への評価は訂正されないままでした。
巡礼が、放蕩として記憶された??
ならば私も、放蕩娘だったとしなければ、
フェアじゃないことになります。
私のは、休みを利用しての巡拝で、
坂東は、免許取りたてで、ドキドキしながら車で回り、
秩父は、観光タクシーだと1泊で回れるので2度も行った。
西国は、数回に分けてバスツアーに参加して終了した。
これでは、ご朱印集めに行ってきただけだったとなるか?。
祖父は、まだ幼かった男の子を亡くしています。
家長としての責任感が 己を責め、
施しをしても、心は満たされなかったのでしょうか・・・
祖母は、主人が家を出て行ったので、苦労した人。
こんなネガティブな決めつけでしたが、見方が変わると、
祖父は家に帰り、「畳の上」で亡くなったのですから、
お金に不自由させない状態で、心配なく出掛けて行った。
祖母は、家を守り、子供たちを教育者にした女丈夫だった。
と、なりました。
私がした巡拝こそが、修行というほど、深刻だったのではなく、
やりたいことを、やり抜いたうちの一つでもあります。
なんだか、過去が変わった。
子供の頃記憶したことは、先祖や両親への認識が、
間違っていることがあります。
先祖や親の素晴らしさを見つけると、いいですね。
ネガティブなことが、自分に影響していると、
思いこんでいたことが
まったく景色を変えて、パワーとなるからです。
思考が現実になる仕組み、罪と罪悪感、人の命、
この世の真実 など、心理、現象から学んだ今は
人は、いかようにも意味づけするとわかります。
「あなたが、そう 思っているんですね」
この言葉の意味が、今までより 深く感じます。
「全てのことは、今の自分が、そう 捉えている」
人に向けた評価が、自分自身だ
と言えると思います。