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10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

東京へ遊びに行ったときに毎回すごいなと思うのは、電車が次々にやってくることです。

山手線とかすごいですよね。2~3分おきに電車がやってくる。1本見送ってもすぐに次が来るのです。線路の数も多いし。いろんな路線があって、並行したり交差したりしている。

駅と駅の間隔も近くて、そりゃあ「健康のために一駅分歩きましょう」なんていう提案が出てくるわけです。あと、バスも縦横無尽に走ってますね。都会は公共交通網がちゃんと存在してるんだなとつくづくうらやましくなります。

こういうときにざっくりと「都会」でひとくくりしてしまうのはよくないですね。

体感でいうと、東京の山手線とそこから出ている路線とか、名古屋とか大阪、京都あたりの大きな街をイメージしています。やっぱり大きな街はそれなりに電車やバスが充実してるんですよね。

 

で、私が住んでいるところには東西を横切るJRと、ちぎれた毛細血管みたいな私鉄が数本くらいしか存在していません。バスもそれほど充実していません。1時間に5本きたら多いほう。少ないところだと1日に数本だったりします。そもそもバス路線が圧倒的に少ない。これは、卵が先か鶏が先かという話なのでしょうが、本数が少ないから(あと路線が少ないから)利用者が少ない、利用者が少ないから本数や路線が減らされる、という事情があります。

JRの駅と駅はとても離れていて、一駅分歩くなんてちょっと現実的ではありません。そもそも山越えしたりして歩けない箇所もありますし。

 

公共交通網が充実している街に住んでいたら、車はいらないと思うでしょうね。

維持費もかかるし、事故の危険性だってある。お酒を飲む人だったらなおさらそう思うでしょう。

テレビドラマを見ていて違和感を持つのは、「急いで誰かのところへ行かなくてはいけないというシーンで、なぜか登場人物が走っている」というシーンが出てくることです。

恋人のもとへ駆けつけるとか、急にいなくなった人を探すとか、ドラマではよくそういうシーンが出てきます。たいていはぱっと部屋を飛び出して、街中をひたすら走るんですよね。シーンとしては緊張感とかいろんな感情を表現できるから、街中をひたすら走るという設定は使えるんでしょう。でもあれ、もし田舎が舞台だったらちょっと考えられないんですよね。田舎だったらまず車に乗るでしょうし。行く場所なんて限られているので。

都会の人はああいうときって、まず自分の足で走るものなのかしら。ドラマの演出と言ってしまえばそれまでなんですけど、いつも不思議だなあと思ってしまいます。歩いていけるところがたくさんあるってことなのかもしれません。

 

そう、都会は、歩いていける楽しい場所がたくさんあるんですよね。お店もそうだし、娯楽施設もたくさんある。いろんな体験をすることができそうです。お金はかかるけど。

田舎だと、それも中途半端な田舎だと、娯楽施設も少ないし、お店も限られているし、文化施設もあんまりないのです。「自然」がたくさんあるような、思い切った田舎ならまた話は変わってきますが、そこそこの地方都市って、「余剰の文化」みたいなものがないんですね。だから、わざわざ車に乗って遠出しなくてはいけなくなる。こういう時に電車だのバスだのという手段は選びません。なぜなら、目的地が路線の付近にあるとは限らないし、そこまでのバスがあるかどうかもわからないからです。

隣の市では夏に海上花火大会が催されるのですが、ご多分に漏れず駐車場がありません。だから電車やバスで来るようにアナウンスされるのですが、これの怖いところは、帰りのバスがないということなのです。終バスがものすごく早い。花火大会が始まるころには終バスが出てしまうという地域がたくさんあります。だからうっかりバスで出かけたら大変なことになるのです。私は一度それを経験しました。いやあせめて臨時バスくらい出してほしいなあと思いましたが、採算が取れないだろうなあということもわかるので、もうその花火大会へは行かないという解決策を選ぶしかありませんでした。

 

電車の本数を増やしてくれ、とか、バスの路線や本数を増やしてくれ、と要求するのは簡単なのですが、やはりこれは現実的ではありません。乗客が一人、もしくは誰も乗っていないバスが走っているのを見かけるのは日常茶飯事で、採算が取れないからやめるしかないのはよくわかるのです。客のほうからすれば、使おうと思ってもあまりにも使い勝手が悪すぎて(時間が合わないとか、行きたい場所へ行くバスがないなど)、結局車で移動することになります。

 

こういうのを解決するために、コンパクトシティ構想みたいなのがあるのかもしれません。

一つの街のなかで、生活も文化も完結するならありがたい話だと思います。そんなふうになっていかないかなあ。私が生きてる間は無理でしょうけどね(笑)

 

新聞の人生相談かなんかでちらっと見かけて、むむむと考え込んでしまった話。

 

相談者は若い女性で(たぶん学生さんくらい)、アート方面に興味があってそういうことを仕事にしたいと望んでいると。しかし、親や先生たちはこぞって「好きなことを仕事にすると、現実が見えて嫌になるからやめたほうがいい」という。「好き」を仕事にするのはどうなのだろう、というような相談。

こういうのって昔からずっとあるよなあ。

主に芸術、芸能方面の進路を考えると、必ずと言っていいほど周囲(親や教師)は反対する。

もっと堅実な仕事を選べと。

確かに芸能方面は、才能だとか運だとか不確実な要素が大きくて、それで生計を立てられるかどうかの見通しはかなり暗いのは確かだ。俳優とかモデルとか、作家とか漫画家とか、そういう道はとても厳しい。あるいはその周辺の仕事とか。マネージャーだったり、編集者だったり、アシスタントだったり、今だともっといろんな種類の仕事があると思う。で、そういう方面に興味があってやってみたい、と思う人も当然いるんだけど、まあたいていは反対されるよね。

それはつまり、安定性に欠けると思われているからだ。それよりも、「普通の会社」に勤めるとか、公務員になるといった「確実な人生」を歩んでほしいと周囲の大人はいいがちだ。

で、それはたいてい「親心」だといわれ、「あなたのためを思って言っているのよ」と言われる。あるいは、「ちゃんとした普通の会社に就職すること」が親を安心させることであり、ひいては親孝行なのである、というロジックなのだ。

 

私は子供のころから、自分が好きだと思うことはことごとく親から無価値だと言われてきた。

「そんなことをしても一銭にもならない」と言われたものだ。

本を読むのが好きだったり、自分でも書いてみたいと思ったり、絵が好きだったり音楽が好きだったりしたんだけど、それで生計をたてるわけにはいかないから、仕事は仕事でちゃんと選ばなくてはいけないといわれていた。言われていたというか、言外にそういう雰囲気があった。

自分自身も、どうしてもというほどの熱意もなかったから、世の中そういうものなのかと思っていた。そして、「仕事というのは苦しくていやなものである。だからお金がもらえるのだ」と思ってきた。

建前としては、好きなことで食っていけたらいいよねとは思うんだけど、実際にはそんなことはできないということになっている。そしてそれは一面においては真実でもある。

その一方で、突き詰めれば自分が好きなことでなければ乗り越えていけない、という面だってある。

どっちも真実だと思うんだが、問題はなぜ周囲の大人はこぞって「好きなことは仕事にするな」というのだろうかということだ。

これがたとえば、「私は事務仕事がとても好きなのでなんとか会社の事務員になりたい」とか「公務員にあこがれているのでなんとか公務員になりたい。公務員の仕事が好きなのだ」と言ったとしたら、果たしてどういう反応になるのだろう。たぶん、どんどんやりなさいと賛成するんじゃなかろうか。だってそれが周囲の思う「堅実な生き方」なのだから。でもこの場合、「好きだというだけでその仕事を選ぶのはいかがなものか」という意見は出てこないと思われる。

「好き」は同じなのに、その方向が違うだけでこんなに反応が違うのはおかしなことだと思う。

 

「好き」と「才能の有無」には関係がない。下手の横好きっていうこともあるし。才能がないのに好きだというだけでその方面に進んだら苦労するかもしれない。苦労したあげくに挫折するかもしれない。最初から地道な職業を選べばよかったと後悔するかもしれない。

でも、人の「好き」はどうしようもない原初的な性質なんじゃないかと思うのだ。

赤ん坊のころからちゃんと好き嫌いは存在する。何かを好み、何かを苦手とするというのは、たぶん生まれ持ったものなのだと思う。(だから一人ひとりの個性というものがあるのだ)

とすると、子供が成長していく中でその「好み」がはっきりしてきたときに、将来の職業選択の一つとしてその「好き」を生かしたいと思うのは当然のことだろう。

一人の人間として生きていくことを考えるうえで、何を選択して生きていくかということは、その個人個人が考えなくてはいけないことだ。

昔みたいに子供の人権がなくて、問答無用で家業を継がなくてはならないという世の中ならともかく、今は曲がりなりにも子供の人権という概念が生まれていて、自分の人生を歩く権利があると考えられるようになっている。

そんな中で、親や教師が自分の価値観だけで子供の将来を決めていいとは思えない。その心配は果たして本当に子供のためになるのか。ただ自分の不安を解消したいだけではないのか。そういうことを親は考えなくてはいけないのだと思う。

 

ツイッターで流れていた「子供を持つメリット、デメリット」の話にぞっとした。

これは完全に生む方の視点からしか考えていない。いつも思うんだけど、「子供」と一口に言うけど、みんなそれぞれ別個の独立した人間なんだということを忘れているんじゃないだろうか。

親の人生のリベンジのために子供を欲しがったり、愛玩動物のような感覚で子供を欲しがったり、他人と競争するために欲しがったり、親の人生のしりぬぐいをさせるために欲しがったり。

「子供を産む」って、一人の人間をこの世に誕生させ、その後何十年も生きていかせることなのだ。それがよくわかってないんじゃないかと思ってしまう。

生まれたばかりの赤ちゃんは確かにかわいいけど、そこで時が止まるわけではない。その子はその後成長して生きていかなくてはならないのだ。

そこをちゃんと考えていないから、子供を自分の所有物のように思い、好き勝手に扱えると勘違いしてしまう人が出てくるんじゃないのか。

 

好きなことを仕事にしてもうまくいくとは限らない。どこかで見極めをつけなくてはならない時が来るかもしれない。でもそれは自分で納得してするべきことで、やる前から親などに決めつけられていいことではない。にもかかわらず、親は決めつける。親が想定していた道を進まない子供が許せないから、「好きなことだけしていてはだめだ」とか「好きなだけでは仕事にできない」「才能もないのにできるわけがない」という。子供を思う親心のふりをして、自分の思い通りに子供を動かそうとしているだけなのに。

 

私はもっと自分の「好き」を突き詰めて考えるべきだった。もっと真剣に向き合うべきだった。

それをせずにいたから、簡単に親の言葉に飲み込まれてしまった。己の弱さと愚かさが悔やまれる。その代償として、私は今でも、自分が好きなことをするのが後ろめたい。一銭にもならないどころか、出費がかさむだけの己の趣味、好み。どうしようもないから開き直っているけど、ずっとずっと後ろめたい。だって私の「好き」には価値がないから。

心の深いところに刻み込まれてしまったこの価値観は、今さらどうすることもできない。

 

映画「サンキュー、チャック」でいちばん印象に残った言葉は、「待っている時間がいちばんつらい」でした。

終わりが来るとわかっていて、じりじりとその時を待っている。待っている時間ははもはや何をどうすることもできず、ただただその時が来るのをじっと待っているしかない。

確かにそれはつらい、と思いました。

その時が来るのは怖い。でも「来る」と思いながら待っているのはもっと怖い。いっそ早くその時が来てくれればいいのに、とすら思う。

最近そんなことをよく思います。

 

私の母は60代くらいのころから、「あと10年くらいか。長いな。早いとこ終わりにしたいものだ」というようなことを繰り返し言うようになりました。積極的に死を望むというわけではないのですが、長く生きていても仕方がないという雰囲気でそういうことを言うのです。老健で働くようになるともっと頻繁にそれを言うようになりました。たぶん職場で、終わりにしたくてもなかなか終わりにさせてもらえない人たちを毎日見ていたからではないかと思います。

あんなふうにはなりたくない、とはっきり言うこともありました。

とはいえ、自ら望んで終わりにしたいというほどの熱意もなく、ただただ「ああなるとつらいよね」とぼやくだけでしたけど。

そんな母も90近くになって、2度ほど命の危機に瀕するような病気にかかりました。あと少し手当てが遅れていたら終わっていたかもしれない、あの薬が効かなかったら終わっていたかもしれない。そんな危機に陥ったのです。でも母はそこから復活しました。たまたま近くに身内がいて、早いタイミングで病院に行くことができたとか、たまたま使った薬が効いたとか、そんな理由です。

最初に倒れた時はいよいよかと覚悟したのですが、なんとか持ち直して退院することができました。もちろん私たち子供は「よかったね」と安堵したのですが、母は「なんであの時死ねなかったのか」と思っていたようです。また聞きなのでどこまで本心なのかはわかりませんけどね。

早く逝きたいといわりにはこまめに病院へ行って、いろいろ処置してもらっているようで、そのあたりの心情にはなかなか複雑な思いを抱いてしまいます。

 

「健康で長生き」が善とされる世の中です。テレビ番組や週刊誌の鉄板ネタでもあります。

こうすれば長生きできる、長生きしたかったらこれをしてはいけない、などなど。とにかく命が長らえていればそれでよし、とでもいうような勢いです。

その一方で、いつ終わるかもしれない介護の苦しみもまた知られてくるようになりました。

両親の世話を一手に引き受けてくれている弟も、延々と続く介護の日々に疲れているようです。

認知症が進んでいく父とのやりとり、生来の毒舌にさらに磨きがかかった母の言葉。そんなものに心身を削られているようなのです。進んで介護を引き受けたとはいえ、やはり毎日のこととなれば心も折れるというものです。

現役世代を疲弊させてまで生きていることが本当に良き事なのか。

ひとくくりにして一般論で語るようなことではありませんが、介護殺人なども発生している昨今、何が正しいのかわからなくなることもしばしばです。

誰かの世話がなければ生きていけない人は、その世話してくれる人がいなくなったらどうなるんでしょうね。人一人、特に大人の生活の世話ってとんでもなく大変なのです。誰かの世話をするということは、その世話をする人の人生をすべて消費することでもあると思うのです。

最後の最後まで自分で自分の面倒を見られるならそれがいちばんいいと思います。そうしてあっさりこの世から退場する。誰もがそんなふうに人生を終えられたら万々歳ですけど、なかなか現実はそうなっていません。

私は両親を見ていると、長く生きるもんじゃないなと思ってしまうんですよね。

母がかつて言っていたように、「よきタイミングでこの世を去りたい」と思ってしまうのです。

問題はその「よきタイミング」を自分で決められないこと。自分の身体の寿命は自分ではわかりません。すごく早く尽きてほしいと願ってもそうはならないし、逆に長く生きたいと願っているのに早々と尽きてしまう人もいる。この不公平さ。この理不尽さ。

私はずっと終わる時を待ち続けています。いつ来るともしれないその時を待っているのはとてもつらい。せめてその時がいつ来るのかがわかっていれば。

わかったらわかったで恐ろしいと思うでしょう。早く終わりにしたいと願いつつも、やっぱり「その時」は怖いと思います。

終わりが判明したらその時初めて私は「生きたい」と願うんじゃないかと思うのです。もう取り返しがつかなくなって初めて、安心して心から「もっと生きたかった」と熱望するような気がします。終わりがわからない状態では、待つことのつらさのほうが勝ってしまう。

 

なんかいい方法はないもんでしょうかね。