ひとくちに「子供が欲しい」とか「子供を持つ」とか言いますが、あれには常々疑問を持っています。
その言葉はあまりにも時期が限定されていないか。視点が限定されていないかと。
「結婚したら子供が欲しいと思うのはふつうのことでしょ」とよく言われますが、そのとき欲している「子供」って、なんだかアイテムのような扱いに思えるのです。
「家族」「家庭」というゲームでそろえたい必須アイテム「子供」みたいな感じ。
子供がほしい、子供を作らなくては、男の子がいい、女の子がいい、三人くらいはほしい、なんていう言い方をします。
あるいは、世間的な目からみたら、「子供はうるさい」「子連れは偉そうだ」なんていう言い方もあります。「母親なら子供を愛するのが当然だ」という使い方もありますね。
そこでいつも違和感を覚えるんですよ。こういう言説で使われる「子供」って、実在する人間のことを言っているんだろうかと。
子供ってつまりは「人間」です。
受精により発生し、母親の胎内で成長し、やがて出産で外界へ出てくる。ヒトの特徴として、生まれてすぐはとても未熟で、一人で生きていくことができないために他人から保護され世話されることが必須の生き物です。
受精から出産までが約10か月ほどかかります。生まれてから自立歩行ができるまでには約1年ほどかかります。自分で食物を摂取できるようになるには2~3年かかりますし、言語を習得するにはかなり長い年月が必要となります。
子供は、必要最低限の生存能力だけをもって生まれてくる。そこから社会で生きていける「人間」になるまでには20年近い時間が必要なのです。
なんかそのあたりを視野に入れていない、というか、考えていないんじゃないかなと思うことがしばしばあります。
とにかく「子供」ができればいいのだ、生まれればいいのだ、育てばいいのだ、という感じ。
その子供にもやがて自我が芽生え、自分のことを考えるようになる、つまり「人間」になるということがほとんど考慮されていないように思えるのです。
親の義務、親の権利といったことが優先され、子供を愛すること=世話すること、もしくは支配することと考えられているのではないでしょうか。
そもそもがね。ある人が「子供が欲しい」と思い、なんとかがんばって妊娠し、なんとか出産すると、そこからしばらくは母親にとって子供は所有物のような感覚になります。一体感ともいわれて、赤子の保護と育成においてはとても重要な感覚です。
問題は、この所有感がずっと続きがちである、ということだと思うんですね。
子供が幼くて無力なときは、親(特に母親)がすべてを判断していかなくてはなりません。子供はまだ自分の意思をはっきり表現できないので、親が推測していくしかないのです。これを続けていくと親は「この子のことは私がいちばんよくわかっている」と思うようになります。
ある時期まではそうなんですけど、問題は、やがて子供が成長して自我を持つようになるということなのです。「人間」になっていくのですから当然のことなのですが、親は案外見落としがち。バイアスがかかるということもありますね。目の前の人の変化は思いのほか目に入らないものなのです。
子供は成長し、一人の独立した人間となっていくのですが、どうもそのあたりを見落とすというか、見ないようにしているというか、目をそらしていることが多いのではないかと思うのです。
「子供」とひとくくりに一般名詞で考えた瞬間に、それは実態のない抽象的な存在になります。一人ひとり違う別個の存在であるにもかかわらず、十把一絡げに「子供」として扱われてしまうんですね。
先日「タツキ先生は甘すぎる!」というドラマを見ていたときに思ったのですが、親が「子供のことは親がいちばんよくわかっている。これは子供のためにやっていることなのだ」というときってたいてい問題が発生するよなと。親がやっていることは一般的な子供への対応であって、目の前の独自の存在であるわが子ではない、ということに気づいていないのです。
人との対応は常に柔軟に、臨機応変にやらなくてはならないのに、「子供だからこう」という安易な決めつけで対応してしまう。ある人(子供)にはうまくいったことでも、別の人(子供)にうまくいくかどうかなんてわからないのに、「子供なんてこういうものだ」という思い込みや決めつけで対応してしまいがちです。で、不協和音が発生してトラブルになってしまう。
みんな誰しもかつては子供だったのに、その時の気持ちは忘れてしまうんでしょうかね。あるいは、タイプが違うから思うこと感じることが違いすぎて想像もできないとか。
また、「子連れ様」といった言い方で親のほうも非難、揶揄されることが多いのですが、その親だってかつては子供だったわけで、どういう育てられ方をしたのかによって形成される人間性にはばらつきが出ます。子供を産んで親になった瞬間に、完全無欠の「親」に変身できるわけではないのです。
ダメな親、だらしない親、ずうずうしい親、などとすぐに非難の矢が飛びますが、別にそういう「親」にあえてなったわけでもなく、それまでの人間性がそこに出てきたにすぎません。そこに勝手な「いい親」のイメージやら、「親の愛情」とやらがプラスされるので、混迷の度は深まるばかりなのです。
子供を持つということは、子供を育てるということは、一人の人間を作り上げることだという認識がもっと広まったほうがいいと思うんですよね。これはとんでもなく難しいことです。
適当に何か食べさせて、寝る場所を作ってやれば勝手に育つ、というわけではありません。そう思っている人もけっこういるみたいですけどね。
だから私は安易に子供を持つことを勧めるのには反対なのです。
産んでみたらかわいいかもよ、なんて無責任の極み。万が一そうでなかったら、その時すでにそこに存在してしまったその子はどうすればいいのでしょう。こればっかりは「やらない後悔」を選ぶべきだと思うんですよね。産んでしまったらもう、いやおうなしにそこに一人の人間が存在してしまうわけですから。
人間社会の機構の衰退なのかもしれませんが、私は少子化もやむなし、と思っています。
人間を育てるのはとんでもなく難しく恐ろしいことなのです。