10月の蝉 -14ページ目

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

米澤穂信さんの「氷菓」を初めて読んだとき、なるほど、とうなったものです。

今日がアイスクリームの日だというので、久しぶりに読み返してみました。

以前読んだときは、なんというか、高校生(それも昔の)の心情にやけに肩入れしてしまって、懐かしい気持ちになったものです。今日は「あのときは懐かしい気持ちになったんだなあ」という感想(笑)

この「古典部」シリーズが好きなのは、舞台が高校だからです。

高校生になって、ちょっとだけ視野が広がって、幼いなりにあれこれ物事を考えるようになった時期。今になって思うととても些細な小さな出来事が全世界に匹敵する重大事であり、人間関係ということを意識するようになった年頃でした。

誰かのちょっとした一言が気になったり、なんでもないような行動を深読みしてみたり。

無理に大人ぶって難し気な言い回しをしてみたり、深刻に悩んだり。そういう時期でした。

「氷菓」に登場する人物たちはとても思考や主張がやけに大人っぽくて、果たして自分が15歳だったころにあんなふうに物事をとらえていただろうかと思うのですが、でもあの当時の自分はたぶんこんなふうに世界を見ていたんじゃなかろうか、と思ったりもするので、読んでいて面はゆいような、まぶしいような、複雑な気持ちになります。

 

 

アイスクリームは好きなんですけど、ほんのちょっとしか食べられません。冷たすぎて。

熱があるときなんかは口当たりがよくて気持ちいいですよね。私は平熱が低いせいか、ちょっと食べると体が冷えてしまっていけません。ほんの一口。それがベスト。

 

 

好きなアイスの味は?

・・・・・・やっぱりバニラかな。

 

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「サンキュー、チャック」のことが頭から離れない。気づくと考えてる。

あれはとてもいい映画だった。第2章は特によかった。

でもそれとは別に、なんだか心にひっかかってとれないものがある。

第1章だったか、チャックがホイットマンの詩を教わるシーンがある。

「あなたの頭の中にはたくさんの人がいる」みたいなことを言われて、そこからいろいろ考えていくんだけど、最終的に、自分はとても素晴らしい存在で、生きていることには意味があるというところに到達する。生きていることは素晴らしい。命の全肯定である。

ここのところがどうしても飛躍しているような気がしてならなかった。

なぜそこで「自分の存在は素晴らしい」という発想にたどりつけるのか。

小石につまづいたような気がした。

チャックはそう思ったのだろう。そして、私以外の人もきっとそうなのだろう。でも、どうしてもどうしても、私自身はそういうふうに思えないのだ。

 

 

私の母親は毒親だったのだろうか。

ずっと考えているけどわからない。いろんなサンプルを見ると、思い当たることもたまにあるけど、だいたいは「そこまでひどくはないな」と思う。

毒親育ちとか、アダルトチルドレンという概念についても、もしかしたら当てはまるかも、と思うこともあるんだけど、やっぱり該当しないや、と思うことのほうが多い。

生きづらさはずっと抱えているけど、今すぐにどうこうするほど苦しいわけでもない。

中学のころからずっと、うすーい希死念慮があるけど、そんなのはだれにでもあるものだと思っていた。最近、「死にたい」と思ったことなど一度もないという人がいることを知って、心底驚いた。え、そうなの?

 

こんな世界はくそくらえだと思うときもあれば、いやいや世界は素晴らしいよ、ただ私にはここにいる権利も価値もないんだよと思うときもある。生きててごめんなさいねと思いながら、素知らぬ顔をして毎日を送っている自分が情けないと思う。

 

このごろようやく、誉め言葉を「ありがとう」と言って受け取ることにちょっと慣れてきた。

ほんとは落ち着かないし、真に受けてはいけないぞといつも自分を戒めている。でも、せっかく差し出された好意を無下にするのは違うということがわかってきたから、とりあえず受け取る。

好意かどうかもわからないぞ、というひねくれた気持ちもあるんだけど、そこを疑いだしたらどうにもならなくなるので、そこは見ないふりをする。

私の世界は、「サンキュー、チャック」の第3章みたいだ。あちこちで崩壊が始まっていて、ただ終わりの瞬間を待っているだけ。第3章でマーティの隣人が言った「待っているときがいちばんつらい」という言葉は私の実感でもある。終わるならさっさと終わってくれ、と願いつつ、戦々恐々としてその瞬間を待っている。だからあのパートの最後はとてもよかった。マーティの言葉が終わる直前にブツッと消える。きっと私の世界もあんなふうに終わるんだろう。それは一つの救いでもある。

 

世界を信じるためにはどうしたらいいんだろう。私にはその方法がわからない。

久々の映画。邦題は「サンキュー、チャック」

予告を見たときは、なんだろうこれ、と思った。

「CHARLES KRANTZ 素晴らしき39年」って、なんのことだと。

シンプルなスーツを着た細身の男性がにっこり笑っている広告。なんでもないような、でも意味の分からない不穏な広告である。

予備知識ゼロで鑑賞した。

 

(以下ネタバレあり)

 

いきなり第3章から始まる。

どうやらかなり不穏な世界のようだった。世界各地で災害が頻発している。地震や火山の噴火、山林火事、洪水。この章の主人公らしき男性(マーティ)が住む地域では、道路が大きく陥没していて、車がつかえなくなる。すべての通信手段がダウンして、世界の終末が近づいているらしい。人類あるいは地球の滅亡の経緯がなんともリアルで、特に通信手段がどんどんなくなっていく様子がさもありなんという感じだった。

マーティは使えなくなったスマホを捨てる。家を出たところで捨てるんだけど、「ほう、こんなところに捨てるのか」とちょっとした違和感が面白かった。いや、使えないんだからもういらないんだけど、なんでそこで地面に落とすかなあと思ったのだ。家の中に置いておけばよくない?

それはともかく。世界はどんどん壊れていく。

もうテレビ放送もなくなっているのに、なぜか「チャールズ・クランツに感謝します。素晴らしい39年間に ありがとう、チャック」という広告だけが流れるのだ。この広告の平板さ、明るさが逆に不気味で、やがてこの広告はあらゆるところに出現する。

怖かったなあ。じりじりと世界が崩壊していくのをただ待つしかないのだ。待っている時間がいちばんつらい。マーティの隣人が泣き笑いの顔でそう言う。そうだ。確かに待っている時間がいちばんつらい。その時が来ることがわかっていて、ただそれを待つしかないのはとてもつらいことだ。

それでもマーティは別れた妻のもとにたどりつき、二人で静かに夜空を見上げる。静かに壊れ続ける星空を見ながら、アラームの鳴り響く中、最後の言葉を伝えようとする。暗転。

 

マーティが元妻のところにたどりつくあたりで、うっすらと構造がわかってきた。これはあれだ、誰かの中の宇宙だと。だからこの宇宙が終わるということは……。

というあたりで第2章が始まる。

 

第2章でようやくチャックが登場する。広告に出ている男性である。彼は会計士らしい。

とある街へ会議のためにやってきている。

ストリートでドラムを演奏しているところを通りかかり、なぜか彼はカバンを置いて踊りだす。

この、踊りだす瞬間が素敵だった。まだ単調なリズムを刻んでいるドラムに合わせて、少しずつ体が動き出すのだ。踊りの始まりはリズムである。

チャックのダンスはすごくいかしてた。切れが良くて楽し気で。

やがて彼は観客の一人ジャニスに声をかける。ジャニスもまたリズムに合わせて踊りだしていたのだ。

ここからのダンスシーンは圧巻だった。美しくて、躍動感にあふれていた。

観客を興奮の渦にまきこみ、二人は踊り続ける。

そして、ここが大事なのだが、とてもいいタイミングでダンスを終わる。熱狂した観客がアンコールをせがんでも、それにこたえることはないのだ。

ストリートドラムと即興コンビによるダンスタイムはひと時の夢。

2章の終わりで、ダンスを踊った場所を通るチャックは、夢のあとを見て思う。これより楽しい時間はもう訪れないだろう、と。

それは、彼の人生が39年という短さで終わるからというだけでなく、誰の人生においても本当に楽しく美しい瞬間は通り過ぎたあとにしかわからないからでもある。

明るいレンガの街角が、その明るさゆえにとても寂しく切なく見えた。

やがてチャックは病に倒れる。「サンキュー、チャック」の意味がわかってくる。

 

3,2,と来て、ついに第1章である。

この章でチャックの過去が描かれる。7歳から17歳で自分の未来を見てしまうまで。

この章はとてもスティーブン・キングっぽいなと思った。

思うようにいかない子供時代、入ってはいけない部屋、いたましい死。

この章で、ここまでの謎が解ける。チャックのダンスがうまいわけ。第3章で鳴り響いたアラームの意味。唐突な終わりの意味。

チャックのクラスの先生が、ホイットマンの詩を通して彼にある世界観を教える。

「私の中に無数の人が存在する」

最初この意味がわからなかったのだけれど、映画を見ているうちに気づいた。どの人もどの人も私の宇宙に存在する。私が知っている人も知らない人も存在していて、そうして世界はできあがっている。第3章で出てきた人も第2章で出てきた人も、この第1章で登場する。背景のように通りすがるだけだったり、同じ学校にいたり。無数の人が私の中にいて世界はできている。

ということは、ほかのたくさんの人の中にも同じように無数の人が存在していて世界ができているということなのだ。一人の死は一つの宇宙の終わりだけど、それがすべてではない。

 

正直まだうまく理解できていないところがあって、チャックが自分の存在を素晴らしいと受け止めるところは、なぜそうなる?と思ってしまうし、この作品が生命を肯定し希望に満ち溢れているとは思えないのだが、それでも否定的な感情は生まれなかった。

「終わり」が終わりでなく、ただの通過点であるようにも思えてきて、それも悪くないなと受け入れられるような感覚があった。「待っている時間がいちばんつらい」というのには全面的に賛成だけど。始まりと終わりの間、振り返ってみてつながること、そういうものがあるのだということが静かに伝わってきた気がする。

 

熱狂するような感動はなかったけど、じんわりとしみ込んでくる感動があった。

サンキュー、チャック。