10月の蝉 -13ページ目

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

生来丈夫な性質なのか、今まで病気やケガで入院したことがありません。

唯一の入院経験は出産のときのみ。

それも数日のことだし、出産による入院の場合はゆっくり休んでいる暇はありません。

まあ、家事から解放されたのはありがたかったですけど、退院してからが大変だったので、いいのか悪いのか。

 

病院にはいい思い出はありません。医者運が悪いんですかね。病院へ行ってよかったと思ったことがないのです。

病院へいくからにはそれなりに体に不調があったわけですが、「異常はないですね」と言われることが多かったです。

いちばん病院へ行っていたのは中学のころで、まあ今から思えば心身症みたいなものだったのかもしれませんが、めまいや頭痛、吐き気などが続いていたのですが「特に悪いところは見当たりません」と言われるばかり。

20代のころに、左のわき腹がじんわりと痛み、微熱が続いたことがありました。我慢しようと思えばできないこともなかったのですが、ずっと体調の悪さが続いていたので、思い切って病院へ行きました。検査したけど原因はわからず、それでもお医者さんは「できれば大きな病院へかかったほうがいい」というので、実家へ戻って近くの大きな病院へ行きました。

そこでもあれこれ検査したのですが、やはり原因はわからず。

私は、最初にかかった病院で言われたことを伝えたのですが、その時にそこの医者がフンと鼻で笑って「でもそれって町医者に言われただけでしょ」と言ったのです。あれはカチンと来ましたね。

それでも何かしなくてはと思ったのか、なにやら点滴をしてくれたのですが、その点滴の針がどうやら外れていたらしく、腕が青紫色にはれ上がりました。

私は見切りをつけて通院をやめました。まだ脇腹の痛みと微熱は続いていたんですけどね。

そして不思議なことにそれからしばらくしてその症状は消えてしまいました。

今でもあれはなんだったんだろうと思います。

 

なんか具合が悪い、何かしら痛い、そういう症状があるから病院へ行くわけですが、それが解消したことはなく、なんなら絶妙に医者に馬鹿にされて終わることばかりが続いたので、私はもうなにか不具合があっても医者に行こうとは思わなくなりました。

 

 

それとは別に、かつて漠然と「入院したい」と思っていた時期がありました。

病気になりたいというわけではなく、現実逃避としての「入院」。

結婚してから毎日の生活がとてもしんどくて、全部投げ出してしまいたいと思っていた時期のことです。専業主婦をしていたので、毎日の家事と育児をやっていたわけですが、そこから逃げ出したいと思ったときに「ああ、入院したい」と思ったのです。

家にいる限りは「やらなくてはならない」という自分の中の義務感から逃れることができなくて、いっそ入院して強制的にそういうものから逃れたいと思ったんですね。

自分の思い込みで自縄自縛になっていたので、そんなとんでもない妄想を抱いていたのでした。

今はそんなことは思わなくなりましたけどね。

 

 

 

病院での思い出ある?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

 

なんだろうこの、スルーしたくてでもできない感じ。

特段の思い入れがあるわけでもないし、あえて異を唱えるわけでもないんだけど。

毎年微妙な気持ちになる。

 

そういえば子供のころ(小学生くらい?)は、赤いカーネーションとか白いカーネーションとかいうものがあったような気がする。母親がいる子は赤、いない子は白、という極めて残酷なシステム。まああれだって、一番最初は、母親のいない子を慮っての白だったんだと思うが、そういう文化ってどうしたって固定化されていくものだから、だんだんと文脈が変わってきてしまったんだろう。そして今はそこまではっきりした区別はつけなくなってきているんじゃなかろうか。だって家庭の状況は千差万別であるということが、建前だとしても一応広く認知されてきているからね。

 

「母の日」に関する記憶はあまりない。たぶん何かしらプレゼント的なことをしようとした時期はあったのだろうが、母親ににべもなく否定されたからやらなくなった気がする。

そもそもうちはそういった「気持ちをきちんと表明する」ということを忌避しているような家庭だった。あれはなんだったんだろうなあ。朝起きたら「おはよう」とあいさつしあうとか、食事の時にきちんと「いただきます」というとか、何かしてもらったら「ありがとう」と言葉にして言うとか、そういうことがなんとなく避けられている家庭だった。照れくさいというのもあったのかなあ。わざわざ言葉にして言うのが恥ずかしい、みたいな感覚があった。

誕生日のお祝いってやつもされたことがないな。「あー、ね」みたいな感じでスルーされるか、そもそもそんなこと気にもされてなかったというか。

ある程度大きくなってから、外からの知識で「誕生日は祝うものらしい」と知って、親の誕生日に「おめでとう」と言ったら、珍奇な生き物を見るような目で見られた。何を言っているんだこの子は、みたいな。そんなことはどうでもいいから、みたいな扱いを受けた気がする。

母は季節行事にもあまり関心がなかった、三人の子供を育てていて余裕がなかったのか、そもそもそういうことに関心を持たない育ちだったのか、理由はわからない。かなり後年になってから、やたらとそういう季節行事をやり始めたから、もしかしたら単に余裕がなかったせいかもしれない。

でも、子供の側からしたら、小さいころから習慣としてやっていることではなかったから、どうしたってとってつけたような感覚になるのは否めない。

節分も、ひな祭りも、5月の節句も、たなばたも、お盆も、いわゆる「季節行事」ってやつはほとんどやったことがない。(だから自分が子育てするときはけっこう戸惑った)

たぶん、だけど、形としては一応踏襲していたんだと思う。豆まきはしなかったけど、お雛様は飾っていたし、クリスマスにはなんかクリスマスっぽい晩御飯を食べていたし、正月にはおせちが並んだ。ただそこには「気持ち」は入ってなかったんだと思う。こういうガワなんでしょ、という、形だけ整えればそれでいいと思っていたのではないか。それが精いっぱいだったのかもしれないと思うのは寄り添いすぎかな。

そういう雰囲気の家庭だったから、母の日だからといって何がどうするというわけでもなかったのだ。

 

母に対してはいまだに複雑な感情がある。子供の時は生殺与奪権を握られていたから(つまり親の庇護がないと生きていけないと自覚していたということ)、どんなに悔しくても嫌いだと思っても、嫌いにはなりきれなかった。親を嫌うってやっぱり子供にとっては怖いことだし。

親の金で生かしてもらい、学校へも行かせてもらったから、感謝しなくてはいけないということはわかっている。もちろんありがたいと思っているけど、もう一枚皮をめくれば、「だったら最初から生まないでほしかった」という気持ちもある。

子供がいるせいで離婚できなかったという言葉を聞いた時には心底そう思ったよ。なぜ生んだって。生まれてきてよかったと思ったこともそれほどないし。

だから、にっこり笑って「お母さん、ありがとう」とはどうしても言えない。

大人になって、自分も親になって、いろいろ想像がつく部分も増えたから、一方的にあの人が悪かったとは思わない。あの人もいろいろ大変だったんだろうとは思う。でもそのことと、私の気持ちにざっくり傷がついて、もう二度と会いたくないと思っていることは別だから。

……とやっとそんなふうに思えるようになってきた。ここ数年で。

 

そんな私も子供を産んで母親の立場になった。

子供を育てるのはしんどかった。自分の子供時代の再現とかやり直しみたいな側面もあり、自分の未熟さに直面させられることが多かったからだ。今思い返してみると、後悔ばかりである。

母のことを悪く言えないなと痛感する。それでも連鎖だけは食い止めたいとがんばったつもりだ。多少はそれができたのかな、と思うのは、娘が子育てで頼ってきてくれたり、息子が毎年律義に「母の日」のプレゼントを贈ってきてくれたりするときだ。

娘は、私だったら絶対親には言わないだろうと思うようなことまで話してくる(それもどうかと思うんだけど)。年々しっかりしてきて、頼りがいも出てきている。なにより、普通に話ができる(見ているテレビドラマのことや、仕事のことなど)。

息子は、大学進学で家を出てから、毎年プレゼントを贈ってくるようになった。(父の日にも贈ってくる)。誰かに教わったのだろうか。うちではそんなことしている人は誰もいなかったのだから、友達とかから教えられたのか。それとも自分で思いついたのだろうか。

なにしろ自分がそういうことをしたことがないから、いまだになんとなく慣れない。面はゆい。でも、私はちゃんと感謝して受け取っている。そうすることが大事だと思うから。

これはもしかしたら自慢してもいいことなのかもしれない。どうなのかな。よくわからないや。

 

ともかく、今年も無事に母の日が過ぎた。

息子は今年も私が大好きなバウムクーヘンを贈ってくれたので、ありがたくいただいている。

 

 

昨日「氷菓」を読んだ流れで、そのまま「愚者のエンドロール」「クドリャフカの順番」を再読した。

私たぶんこのシリーズあんまり読み返してないな(笑) ほぼ内容を覚えてなかった。おかげで十分楽しめたからそれはいいんだけど。

 

「クドリャフカの順番」は文化祭が舞台になっている話。

作者の米澤穂信さんは1976年生まれだそうで、だから高校生だったのは1990年代ということになるだろうか。作者の高校時代の文化祭はすでにあんな雰囲気になっていたのかなあ。

というのも、私が通っていた高校の文化祭はそれはそれは地味なものであったからだ。

時代的なものなのか、地域的なものなのか、それともあの学校の方針がそうだったのかはわからないが、私が通っていたころは文化祭にほかの学校の生徒や一般の人が来ることは許されていなかった。本当に、校内のみの開催。

今だと食べ物を扱う模擬店や、さまざまなパフォーマンスが行われたりしているけど、そんなのも一切なかった。文化部が成果を発表するだけの、文字通りの「文化祭」だった。

ほら、体育祭が運動のみを行うような感じで、文化祭は文化部の発表の場だったのだ。

私は2年から演劇部に入ったので、舞台公演はあったけど、ほかは何をやっていたのかなあ。

音楽系のパフォーマンスがあったような記憶がかすかにある。バンド演奏をした生徒たちがいたんじゃなかったか。演奏を見た記憶もかすかにあるけど、住む世界が違いすぎて後ろのほうでこっそり眺めていただけだった気がする。

今はクラスTシャツを作ったりするんだよね。そういうこともしなかった。というかできなかった。クラス参加の枠もなかったわけじゃないけど、そんなに熱心に取り組む生徒もいなかったと思う。とにかく、とても地味でひっそりした行事だった。

 

だから、高校の文化祭が舞台になっている話はとても興味深い。私から見たらまるで大学の学祭のように大人びて見える。いろんな企画を立てて実行している様子が、なんだか信じられない。

あんなふうな文化祭だったら楽しかっただろうなあと思う。ほんと、自分の高校時代の文化祭ってほぼ記憶に残ってないからね。

初めて娘の高校の文化祭に行ったときは、まず「部外者も行っていいのか」と驚き、校内に入ってからはさまざまな企画に心底感動したものだ。こんなにいろんなことができるんだ、とうらやましくも思った。

私が高校生だったころは、まだうっすらと学生運動の名残が尾を引いていて、先生たちは生徒の行動にキリキリと目を光らせていた。ほかの学校の生徒との交流なんてもってのほかだったし、生徒が楽しむことなんてとんでもないことだと思っているフシがあった。管理管理できっちり締め付けて、とにかく逸脱させないことが最重要課題だったと思う。くだらない校則も多かったし。

そういえば、中学のときは進路指導の先生に「お前らは何にも考えずにとにかく勉強していればいいんだ」と言われてたなあ。そういう時代だった。

 

 

さて、まだ「遠まわりする雛」と「ふたりの距離の概算」と「いまさら翼といわれても」が残っているので、あとしばらくは高校生気分に浸っていられそうだ。