10月の蝉 -12ページ目

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「強く願うと叶わない」

なんとなくそういうジンクスがあるように思う。

何かを強く願うと、それが強ければ強いほど叶わないことが多い気がする。

 

それは日常のちょっとしたことだったりする。

例えば、誰かに会う。どこかへ行く。芝居とか映画とかを観る。

そんなちょっとした予定で、「どうしても」と思えば思うほどうまくいかなくなる。

そんな気がしてならない。

だから私はいつも逃げ道を用意する。

だめなら仕方ない。間に合わなかったらあきらめる。縁がなかったものとして断念する。

そんなふうに、気持ちの逃げ道を用意して、あたかも「別にそれほど強い願いというわけじゃありませんよ」というポーズをとる。そうすることで、だめだった場合の備えをするのだ。

そうやって自分の強い願いを中和することで、心の安全を確保する。

いつしかそういうやり方をとるようになっている。

 

うっかりその備えをしないまま強い願望を抱いてしまってだめになったときは、必死で後始末をする。さまざまな角度からその理由をさがし、「ああ、だからしかたがなかったのだ」と自分に言い聞かせる。

でもこれはあんまりうまくいかない。自分でもうっすら「後始末で理由を探しているだけだ」とわかっているからなのか、何度言い聞かせても妄執が消えない。折に触れその亡霊がよみがえり、私を苦しめる。何度も何度も。

だから私は、初めから強い願いを抱かないようにする。ダメ元だ、うまくいったらラッキーなのだと自分に言い聞かせる。だめになったときのことを想定し、あきらめるルートを確保する。

 

希望を抱くのが怖い。本気で夢を見るのが怖い。だってきっと叶わないから。

私はいつだって言い訳を抱えて物事に当たる。回避ルートをいくつも用意しながら。

浜松はアクトシティにて、「トランス」観劇してきた。

 

「トランス」に関しては抱えているものが大きすぎて、自分の気持ちをどう扱えばいいのかいまだによくわかっていない。

人生最大の挑戦が玉砕に終わったあのときから、すでに3年が経過しようとしている。

過去のブログあさってみたけど、明言はしてないんだよな。差支えがありすぎてはっきり書けない。ただ、私はかつて紅谷礼子のセリフを全部覚えたことがある、ということは書いてもいいかもしれない。舞台でお披露目することはできなかったけど、たしか1か月弱で全部セリフを入れたんじゃなかったかな。いや2週間くらいだったかしら。なにしろ短期間でセリフを入れなくてはいけない状況だった。

あの時から私にとって「トランス」は特別なものになった。その前からそれなりに気になっている作品ではあったけれども、あの時礼子のセリフを入れたことで、特別になったのだ。

彼女の言葉や体験がまるでわがことのように感じられてならなかった。まあ、勝手な思い入れだけどね。

 

昨日の観劇中、私はきもいオタクの挙動をかましてしまった。

よく映画館などで、何度も見るせいでセリフを覚えてしまって、スクリーンのキャラのセリフを一緒に言うやつはきもいって言われてるけど、まさにあんな感じ。

気づいたら一緒になってセリフを口にしていた。はー。きもい(笑)

2時間、目は舞台に吸い付いたままで、ぶつぶつセリフを口にしていた私はさぞや不気味だっただろうな。もちろん声に出したりはしてないけど、若干挙動不審だったのではなかろうか。

幸いにして私はいちばん端っこで、片方にしか人はいなかった。被害はその人だけかな。

座席は、ぎりぎり1週間前にとったにしては見通しのきく席だった。斜めからではあったけど、さえぎるものなく舞台を見ることができたのはありがたかった。ちょっとあきらめてたからね。

 

しかし、やはり芝居のサイズと劇場のサイズはあってなかったんじゃないかと思う。

あの芝居に対して、あの大ホールは大きすぎるのだ。舞台上はうまいこと区切ってアクティングエリアを作っていたけれども、いかんせん客席からが遠すぎる。ちなみに私の席からはほぼ表情は見えなかった。ぼんやり顔が見える程度。それはちょっと残念だったが、その分声に集中できたのはよかったかもしれない。伊礼彼方さんの歌声は見事だった。さすがといったところ。

風間俊介さんの立原天皇もみごとだった。ちょっと声の出し方が初代の小須田さんに似てたような気もするけど、立原天皇はああいうふうに演じるのがスタンダードになっているのかな。

声だけしか手がかりがなかったせいかもしれないが、岡本玲さんの礼子先生はちょっと物足りなかった。なんか一人だけ若いような感じがして、だってあの3人は高校の同級生という設定なのに、全然そういう雰囲気が伝わってこなかった。大学を中退して医大に入りなおして医者になってしばらく経っている、という人生の積み重ねも感じられなかったし。

礼子さんは親からの抑圧から自分を見失い、一時期カルトに取り込まれていた過去がある。あるということになっている。勤務先の病院で不倫してて、妊娠したかもしれない状況にある。あるということになっている。そういうことを声から伝えてほしいし、話し方で感じさせてほしかったんだけど、私には伝わってこなかった。見終わった直後はそれが不満だったのだが、だんだん頭が冷えてくるにつれて、いやこれは私の勝手な思い込みかもしれんと思うようになった。

自分がかつて入れ込んでしまったキャラクターであるがゆえに、勝手にそういうものを期待してしまっていただけなのではないかということに気づいたのだ。

あの「トランス」は令和の「トランス」なのだ。だからきっと礼子先生もあれでいいのだろう。

カルトも親の抑圧も学校の理不尽も、たぶんただの説明になってしまっているのだ。

屋上の切なさは、こっちが勝手に脳内補填して感じればいいのだと思う。

 

最近自分が書く脚本のセリフが、あまりにも日常言語にかたよっているせいか、久しぶりに耳にした「演劇言語」が新鮮だった。ああ、いかにも演劇っぽい言葉選びだなあと楽しくなった。

演劇っぽい言葉を演劇っぽく話す。終盤の現実と妄想が入り混じる展開はきわめて演劇的で、ああそうだこれこそ演劇だ、とぞくぞくした。

 

浜松で公演してくれてよかった。観ることができてほんとうによかった。

惜しむらくは、ロビーでパンフを手売りしていた鴻上さんを見られなかったこと。いないと思ってたんだよなあ。もうちょっとロビーをうろつけばよかったと激しく後悔している。それだけが心残りだ。

 

観に行く前は、これで長年の懸案事項にけりがつくかなと思っていたのだが、全然そんなことはなかった。今でも「トランス」は気になる作品だし、演じてみたかったなあという思いはいっそう強くなった。たぶんそんな機会はもう訪れない。だからこそ、永遠にあこがれ続けるんだろうなと思う。

 

ここんとこ私のツイッタータイムラインでは、「酒を飲まない(飲めない)やつは居酒屋へ行くべきではない」論争がさかんに流れている。

単語ひとつでいくらでも連想ゲームが広がっていくツイッターランドなので、もう元ネタがなんなのか、論点はなんなのかはボケボケになっているが、つまりは「飲み屋に行ったらアルコールを摂取せよ。そうしないやつは行くんじゃねえ」という話なんじゃないかと思っている。

飲み屋っつーのはつまりは酒を飲むところで、それが商売なんだから、酒を飲まずに長々と居座られても困るということなんだろう。

いつも不思議なんだが、どうしてアルコールは何杯でも飲めるのに、そうじゃない飲み物は限界があるんだろう。吸収率の問題なんだろうか。

同じ時間内でビールとウーロン茶を飲むとしたら、圧倒的にビールのほうがたくさん飲める。

あれがほんとに不思議で。

 

というのも、私はほとんどお酒が飲めないからだ。

若いころは大人ぶって(ちょっと悪ぶってw)お酒を飲もうとしていたのだが、何度チャレンジしてもすぐに気持ち悪くなってしまい、量を飲むことができなかった。

薄い水割り1杯が何時間も残っていたり、カクテル一杯でよれよれになったり。

「酔う」という状態にどうしてもならなかった。酔って上機嫌になっている人たちがうらやましくて、なんとかその仲間に入りたかったのだが、同じように酒を飲むとすぐに気持ち悪くなってダウンしてしまうのだ。あれはほんとにつらかったな。胃がむかむかして、耳がキーンとなって、冷や汗が出て体が震えてくる。吐くのもしんどかった。

酔う前に二日酔い状態になる、みたいな感じ。まあ酔ったことがないから二日酔いもほんとはちゃんとわかってなかったのだが。

のちに、どうやらアルコールアレルギー気味であることがわかり、アルコール分解酵素をもっていないらしいこともわかったので、いつしか酒を飲むことはやめてしまった。

飲むことに快楽がないから、飲まなくても全然つらくない。酒飲みの人から「私ばっかり飲んでごめんね」と言われても「別に飲みたいわけじゃないから問題ないっす」と答えていた。 

例えばピーマンが嫌いな人がいたとして、その人の前で「ごめんね、私ばっかりビーマン食べちゃって」ということの無意味さ、みたいな感じ。

若いころは見栄を張っていろんな種類のお酒を口にしていた。梅酒から始まって、日本酒、ウイスキー、ブランデー、ワイン、ジン、テキーラ、ウオッカなどなど。一通りは飲んでみたことがある。そして見栄を張って「うん、おいしいね」なんて言ってた。嘘ばっかり。どれを飲んでもアルコールの味しかわからなかった。そりゃ香りや味の違いはわかったけど、それを「おいしい」と思えることはついぞなかった。だから私は徹底してアルコールと相性が悪いのだろう。

 

一方で私は、飲み会や飲み屋の雰囲気は大好きだった。人と話すことが好きなので、垣根が取れていろんな話が飛び交う飲み会の席は楽しいと思う。飲み屋の雑駁な雰囲気も好きだった。

みんなが飲んでるときに素面のやつがいるとしらける、とよく言われるけど、私はアルコールの助けなしにテンションを上げることができるし、まるで酔っぱらったような心理状態になることもできる。実際にアルコールを入れたら故障するというだけのこと。

だから、芝居の打ち上げでわいわい盛り上がるのはけっこう好きなのだ。お金がないアマチュア劇団ばかりだから、打ち上げは安い居酒屋の飲み放題コースが多いんだけど、私はほとんど飲まなくても同じだけ払う。参加費だと思っているからね。

飲む人たちにまぎれていれば、居酒屋に行っても許されるんじゃなかろうか。

個人的な集まりで居酒屋へ行くことはまずない。だって飲まないってわかってるから、最初からお酒を提供する店には行かないのだ。

 

小説やドラマの世界では、仕事の後に飲み屋で話す、みたいなシーンがよく出てくる。本音が出せる場という意味合いなんだろうと思うんだが、あれは私にはできないことなんだよなと思う。

お酒が飲めたらよかったな、とちょっと思う。体質的に飲めないのでしかたないんだけども。

 

アルコールはどんどん飲めるけど、ソフトドリンクはそうはたくさん飲めない。おなかがガボガボになっちゃうから。あと、飲み屋さんのソフトドリンクはバラエティがない。私は炭酸もだめなので、いきおいウーロン茶ばっかりになってしまって、これもたくさん飲むのは難しいのだ。

 

結局、喫茶店でだべる、ということになるんだけど、昨今は喫茶店も長居をするといやがられるので(昔からそうか)、結局は外へ出るなってことになるのかな。さっさと飲み食いして退店してくれ、と店側は思っているわけで、うん、まあ飲食店っていうのは飲食する場所だからね、飲み食いが終わったらさっさと出ていかなくちゃいけないわけだよ。

どこにいればいいんだよ、ってことで、つまりは家にこもるという結論に達するのであった。