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10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

映画「君のクイズ」を観てきた。

原作厨の私ではあるが、これは原作未読。そしてたぶんこの先も未読だと思う。

原作とはかなり違っているという話でもあるし、未読のままのほうがいいような気もしている。

 

映画は面白かった。

クイズ番組は、以前はよく見ていた。

パンフレットの中に日本の主なクイズ番組が挙げられているんだが、8割くらいは見てるんじゃないかな。クイズダービーなんて毎週欠かさず見ていたものだ。

昔のクイズ番組は、出題と解答の間隔が短かったような気がする。だんだんと演出なのか、「正解!」というまでの時間が長くなっていった気がするのだ。気を持たせる、というか、盛り上げようとしてる?そんな感じ。

私は、問題が出たらすぐに答えが知りたいと思う。わからないという状態が苦しくて嫌いなのだ。だから、解答者が答えたらすぐにそれに対する正否を出してほしい。そこでドキドキするのはなんだかとても嫌なのだ。

かといって、自分もクイズが解けるようになりたいとは思わなかった。たまたま自分が知っている知識で解ければいいが、そのために知識を蓄えたいというふうには思わなかったのだ。

だから、クイズプレイヤーの人たちはすごいなと思う。

 

「君はクイズ」には二人の天才クイズプレイヤーが登場する。絶対王者の三島と、魔法を使う本庄。静かなたたずまいの中村倫也さんと、ミステリアスで小生意気な雰囲気の神木隆之介さんが素敵だった。そして、番組の総合演出を手掛ける坂田を演じたムロツヨシさんがとてもよかった。一見優しそうに見えるし、話し方も穏やかなんだけど、ものすごく怖いところのある坂田をきっちり表現していた。ムロさん自身が持っている闇みたいなものが、坂田の笑顔の裏側にぴったりと張り付いているようで、三島と対決するシーンは息をのむ緊迫感が漂っていた。

事件を追う雑誌記者をユースケ・サンタマリアさんが演じていたんだけど、ここの配役がちょっと面白いなと思った。ユースケ・サンタマリアさんとムロツヨシさんは、わりと似たようなポジションの役を演じることが多い気がする。だから、坂田をユースケさんが演じて、雑誌記者をムロさんが演じるというパターンもありのような気がした。んー、でもやっぱり今回の坂田はムロさんのほうが適任だったかな。

クイズの答えを考えているときの頭の中を映像にしているところは圧巻だった。

三島は樹形図のように思考が枝分かれしていって最後に答えにたどり着く。本庄はぶわっと雲のように情報が膨れ上がって最終的に答えだけが残る。その残った答えを見つめながら解答する瞬間の目がすさまじかった。もうその答えを見ているとしか思えないような目。

 

冒頭に掲げられた「なぜ本庄は0文字解答ができたのか」という謎に迫っていく過程がスリリングだった。あんなふうに、クイズの答えがその人の人生に深くかかわっていることがあるなんて、想像したこともなかった。そういうものなんだろうか。

人生に正解はない、と三島は言う。クイズには必ず正解があるけど、生きていくことに正解はないのだと。いつだって、どの瞬間だって答えを探して、時々間違えて、また答えを探していく。

そういうものなのだ、と三島は言う。

そのわりには、間違えたら人生終了な世の中ではあるんだけどね。日本だけなのかどうかはわからないけど、答えを間違えたり失敗したらそこで終了な世の中じゃない? だから必死で正解を探っているわけだ。

 

私が演劇の稽古が好きなのは、何度でもやり直せるからかもしれない、とふと思った。

本番の舞台は始まったらもうノンストップ、それこそ人生と同じでただ流れ去っていくしかないんだけど、稽古の時は何度でもやり直せる。間違えたところ、うまくいかなかったところを巻き戻してやり直しができる。まるで習字で文字をなぞるかのように、何度でも修正して、訂正して正しい答えを作ることができる。

もしかしたら私、本番の舞台よりも稽古のほうが好きなのかもしれない。ずっと稽古していたいと思うことがあるくらいだから。

そのくらい、「正解を出す」ことにこだわっているのかもしれないなと思う。

 

そんなにこだわっているわりには、いや、こだわっているからこそかもしれないが、今のところ私は人生というクイズで正解を出したことがない。ずっと「ブー」という不正解の音が鳴り続けている気がする。

演劇ってなんだろうね。

ここしばらく自分の稽古がなくて、ようやく接した演劇がプロの舞台。

ツイッターでは相も変わらずいろんな意見が流れてて、もうなにがなんだかわからなくなってる。

私はなにがやりたいんだろうな。

初期衝動としては、「お芝居をしたい」という気持ちだけだった。

ちゃんと舞台があって、台本があって、見てくれるお客さんがいる。私にとっての「演劇」はそういうものだった。

頭の中でどれだけ妄想したって、それはあくまでも妄想であって現実じゃない。

妄想の中の私はとても演技がうまくてお客さんが感動してくれてるけど、妄想だからねえ(笑)

だから、本当に台本をもらって稽古して本番を迎えたときはすごくうれしかった。

芝居をする怖さもまだよくわかってなくて、とにかく「ちゃんと演劇ができる」という状況そのものがうれしかった。「ちゃんと」っていうのは、なんていうか、そのことが現実として周囲に正式に認められている状態、という意味。なにしろそれまでは私の頭の中にしかそういう状況は存在していなかったからね。

高校の演劇部にしても、のちの市民ミュージカルにしても、「私がここにいて、私に配られた台本があって、私に割り当てられた役があって、きちんと稽古の時間があって、本番の舞台にも立っていいのだ」という事実が、とんでもなくうれしかった。それが許されているのだ、ということが私にとってはとても重要なことだったのだ。

いつだって私は世界にとって「場違い」な存在のように思えていた。いてはいけない存在とでもいおうか。なにをしていても、いつも「ここにいていいのだろうか」「これをしてもいいのだろうか」とびくびくしている私がいる。

だから、「劇団」という場で、ちゃんと台本がもらえたり役がもらえたり、やるべきことを与えられたりすると、「ここにいてもいいのだ」と安心する。

セリフは「言ってもいいこと」であり、むしろ「言わなくてはいけないこと」だったりする。

行動もまた同じ。やってもいいことがはっきりしているから芝居は安心できるのだ。

 

たぶん、私にとっての演劇はそういうものなのだと思う。

個人的なスキルとして演技がうまくなりたい、という気持ちはあるけど、「演劇はコミュニケーションである」と言われるとちょっと困ってしまう。

演劇が流行っているかどうかという話が昨今話題になっているけど、いまひとつよくわからない。演劇はいろんな人に配慮すべきだという議論もあるけど、これもまたよくわからない。

つまり私は、自分以外の人のことは考えていないということなんだろう。あまりにも利己主義すぎて恥ずかしいけど、それらのことについてどう考えたらいいのかは本当にわからない。

 

テレビや映画で活躍している俳優や、大きな商業舞台で活動している俳優と、東京以外の場所で活動している、いわゆるアマチュア俳優と、完全に趣味の領域で活動している人たちと。

同じ「演劇」という言葉を使うけど、その中身は全然違っている。求めているものも違うし、求められているものも違う。なのに同じ言葉を使うからなんだか混乱してしまう。

私はただ、「舞台の上で仮想現実を生きたいだけ」なんだと思う。それ以外のことはたぶん考えてないな。

 

今日は新月。つまり夜に月は出ません。昼間のうちに出てきて夕方には太陽とともに沈んでしまっています。

夜の空は真っ暗。星だけがひそやかに光っています。

昔は街の明かりがなかったから、本当に暗かったのだろうなと思います。

 

月のない夜はよりどころのない気持ちになります。

まだ次の公演の稽古が本格的に始まらないこともあって、とても宙ぶらりんな状態。

もう少しすれば稽古の日々が戻ってくるでしょうから、それまでは暗闇を我慢しなくてはなりません。

 

今日は朝から夕方までずっと(トータルで9時間)、YAMANBA企画のメンバーと話し込んでいました。連休明けで久しぶりだったこともあって、話すことは尽きません。

直近の体験や、観劇の感想、それぞれの芝居観、演劇に対する思いなど、話しても話しても終わりませんでした。

こんなふうに安心して話せる仲間がいることがなんだかとても不思議です。

少し前から周囲の人間関係に変化があり、新しい人たちとの交流が増えました。

縁って不思議だなあと思います。いつになっても変わっていくものなんですね、人間関係って。

 

明日か明後日あたりからまた月が太っていきます。

細い細い三日月を見ることができるでしょうか。

西の空に沈む盃のような半月を見られるでしょうか。

若い人のエネルギーはまぶしく、私も自分の立ち位置を改めて見つめなおさなくてはいけないなと思わされます。

なんで私は演劇を続けているんでしょうね。ふと見失いそうになります。

月のない夜は暗いのです。