孤独、ではない | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「一人でいること」が平気な人とそうでない人は、どこに分岐点があったのだろう。

「一人でいること」が好きな人と嫌いな人はどこで分かれるのだろう。

遺伝とか生育環境とかが関係しているのかなと思っていたのだが、いや違うこれはその人が持つそもそもの傾向なのだ、とわかってきた。

娘と話をしていたら、彼女は一人っ子として育ったのだがどうにも一人が得意ではない、という話をし始めた。一人でいたくない、いつも誰かと一緒にいたい、と思うタチなのだと最近自覚してきたというのだ。

よく世間では「一人っ子だから一人に慣れてる」もしくは「一人が好き」だと思われがちだが、自分はそういうふうには思えないという。友達と一緒にいることが楽しいのだそうだ。

育休中に赤ん坊と二人きりだったときは、人数的には「二人」だけど、実質「一人きり」だったようなものだとも言った。赤ん坊は確かにかわいいけど、圧倒的に世話をしなくてはいけない、気を配らなくてはならない存在で、意思の疎通は難しいからだ。

たまたま私が近くに住んでいて、時々子守りをしたり話し相手になったりしたからまだよかったという。娘の夫もかなり育児はしていたけど、どうしたってすれ違いの時間は生まれてしまうわけだからね。

 

娘の話を聞いて、親子でもこうも違うものなのかとちょっと驚いた。

私もワンオペ育児はかなり辛かった。でもこれは、「一人でいること」が辛いわけではなく、圧倒的な重圧を一人でしのがなくてはならないというつらさである。

それ以外は、それほど辛くなかった。人に会えなくてさみしいというふうに思ったことがあまりないのだ。「人に会えないさみしさ」の基準が、娘と私ではだいぶ違うらしいということを知った。

 

私は三人きょうだいの長子で、実家では家族5人で暮らしていた。

厳密に言えば、仕事人間だった父は家ではほぼ存在感がなかったけど、まあ、いるっちゃあいるわけで。

大家族で育つと、「自分一人」という状態がさみしく感じるという話はよく聞く。

「小さい頃は、神様がいて」というドラマでも、離婚して家を出て一人暮らしを始めた「あんさん」は、なんとなくさびしそうに描かれていた。人と関わり、人の世話を率先して焼いてきた人はそういうふうに感じるだろうなあと思う。

でも、私は5人家族で育ってきたけど、家の中に他の人の気配がするのがとても嫌だった。

子どもの頃はそんなことは自覚できなかったけれども、家を出て一人暮らしをするようになってそれを痛感した。明かりの消えた誰もいない部屋に帰ることのすがすがしさ。朝、家を出た時と何も変わってない室内の嬉しさ。他の人の気配がない部屋が本当に好きだった。

だからといって、私は人交わりが嫌いというわけでもない。気のあう人たちと話すのは楽しいし、今は演劇を通してたくさんの知り合いもできた。稽古は楽しいし、本番はもっと楽しい。

それでも、私は自分一人になる時間が確保できないと辛くなる。

 

こういうのはもう、生まれ持ったタチなのだなあとつくづく思う。

育て方とか環境で変わる部分はあるのかもしれないけど、それ以前に持って生まれたものがあるのだ。

娘はわりと頻繁に私に助けを求めてくる。アパートへ行けば、いろんな話をしてくる。仕事のこと、子育てのこと、夫婦のこと。彼女も人生のフェーズが変わったということなのだろうとは思うんだが、初めの頃は「本当に私はここにいていいのか?」と思っていた。もし私だったら、助けてくれるのは有り難いけど、いつまでもいられたらちょっと苦痛だなと思っていたから。

しかし、どうやらそういうわけでもないらしい。誰かと一緒にいたいと娘は思うんだな。

とはいえ、私は本質的には一人でいたいので、適当なところで切り上げて退散してきてしまう。

難しいところだねえ。

 

それに今は猫がいるから、本当の意味で「一人」ではないのだよね、家にいても。