「一人芝居」っていうのは本来は、「舞台上に役者が一人」という状態のことを指す。
相手役がいない状態で物語の世界を作り上げるのが「一人芝居」
そういうつもりでやってきたんだけど、ここんとこちょっと違う感覚も生まれ始めている。
穴の会の稽古日には稽古場に行って、他のメンバーと一緒に稽古をする。
といっても、それぞれが自分の作品をやってみせて、メンバーが感想やらアドバイスやらをするというのが穴の会の稽古方式。あくまでも自分で演出をつけて作品を作るのが穴の会のやり方なのだ。
だから、セリフ覚えとか細かい調整なんかは、それぞれが自分でやってくることになる。
私は日中家に一人なので、もっぱら自宅稽古である。
初めの頃は、自宅で一人声を出すことに恥ずかしさがあった。芝居は人に見てもらってナンボという感覚があったからだ。
ところが最近その感覚が逆転しつつある。
家で一人でやってるときの方がのびのびとやれるのだ。人が見てるとなんか調子が狂う。
これはとてもおかしなことで、人が見てたらだめだっていうならお客さんの前で上演できないことになってしまう。
もうちょっと深く分析してみると、どうやら「稽古」という状態が不安定になる要因らしい。
自分もやってしまってるから言えないことではあるんだけど、稽古だからどうしても改善点を挙げることが多くなる。「そこはこんなふうに見えてしまう」とか「もっとこうしたらいいのではないか」という、プラスをアドバイスをするのが穴の会なのだが、どっちにしろ「採点」されている感じになることは否めない。だから緊張してしまうのだ。
むしろ本番の方が緊張しない。いや、全く緊張しないわけじゃないけど、緊張の種類が違う。
本番の時、観客席は闇の中に沈んでいる。そこに確かに人はいるけど、はっきりは見えない。
その人たちに向けて私は語る。調子の良いときは、会場の空気をひとつかみにできたような気持ちになれる。私が役者として及第点に達しているのかどうかはわからない。全然だめなのかもしれない。まあ、だめでも続けちゃうんだけどね。
家で気持ちよく一人芝居の稽古をしていて、ふと、これって一人カラオケやってるときの感覚と同じだと気づいた。
カラオケで歌うとき、私はいつもイマジナリーオーディエンスに向かって歌っている。
空想の聴衆。
空想だから絶対私に都合の悪いことはしない(笑)。いつも熱心に聴いてくれている。空想だから。そして私はそのことに満足していて、むしろ本当の「人」と一緒にカラオケに行くことのほうが怖くなっている。(もし誰かとカラオケに行くことになったら、対外用の仮面を装着することになる)
歌の場合は、確実に私が舞台に立つことはないので、延々と自己満足のショーを続けていられる。好きなだけリサイタルを敢行し、歌い続けられる。ジャイアンよりはいいんじゃないかな、実際に人を呼ばないから(笑)
最近ふと不安になるのは、芝居に関してもイマジナリーリサイタル状態を心地よいと思い始めてるんじゃないかということ。
一人芝居ばっかりやってるから、そっちのほうが心地よくなってしまってきてるのではないか。
やたらセリフが頭に入ってきて、気づくとセリフを口ずさんでいたりする。
自分のことをしゃべるより、芝居の役の言葉をしゃべっているほうがしっくりくる。大丈夫か。
去年の6月のブログ記事を読み返したら、なんだか悲壮な決意が書かれてた。何があったんだっけと思って日記を読み返したら、けっこう大きな事件があったのだった。
というか、あれからまだ1年も経ってないのか、というほうが衝撃だったけど。
私は切り捨ててしまったものに関しては速やかに忘却の淵に流してしまうのだな、と改めて思う。まだ、たった1年前のことだったのか、あれは。
6月ってセリフ覚えがよくなる時期なのかも(笑)