花曇りの日が続く | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

ソメイヨシノの花の色は曇天の空に溶けてしまうね。

真っ白ではないんだけど、かなり白に近いピンクだから、灰白色の空をバックにソメイヨシノを見上げると、どこからが花でどこからが空だかわからなくなる。

 

公園の桜もだいぶ咲いてきた。もう4月も5日過ぎた。早いね。大人になるとほんとに日が過ぎるのが早いと思う。先の予定が見えてしまう分、先取りしてしまうからなんだろう。

そういえば今年の芝居の予定を考えてたら、あっという間に12月になってた。

うかうかしてると今年も瞬殺で終わる。

 

小道具製作はやっと興が乗ってきたところで、こうなると次々にアイデアが浮んでくる。

霧が晴れて周りの光景が見えてきて、終着点が姿を現してくるこの感じが好きだ。

 

「春なのに……2024」の本番も近づいてきた。再来週だよ。改めてびっくり。

まだずっと先のことだとなんとなく思い込んでいたけど、全然そんなことなかった。

少ない稽古回数でもなんとかぼんやり形は見えてきた感はある。とはいってもまだセリフを追うのに精一杯だったりするんだが。

役の解釈の相違、役者の技量、演出意図が合ってるのかどうか。考えることはいっぱいある。

正解はないし、完全なる完成形はないので、ぎりぎりまで試行錯誤していくことになるんだろう。

役者と私の間で解釈が違ったときにどうするかはずっと頭を悩ませている問題である。

特に自分で書いた脚本の場合、どうしたってイメージは持ってるわけで。

ここはこういうニュアンスで行きたいとか、こういう構図にしたい、とか、こういう展開に持って行きたいという意図が当然ある。

それを役者と共有するためにはどうしたって話をしなくちゃいけない。

昔は自分のイメージを押しつけることしかできなかったし、そのイメージを表現してくれない役者にいらだったりもしてた。今はなるべく押しつけないように気をつけてるし、表現できない理由をちゃんと考えようと思っている。解釈違いなのか、スキルがないのか、今までやったことがないからできないのか。

望む演技を役者から引き出すのが演出の仕事だという人もいる。確かにそうなんだろうとは思うんだが、じゃあどうやって引き出すのかが問題なのだ。

とりあえず言葉でいっぱい説明してみる。いろんなたとえ話をしたり、言い換えをしたりして、役者に響く言い方を探る。うまく思い当たるものを掘り出せたら演技が変わる可能性がある。

掘り出せなかったり、掘り出しても表現方法がわからない場合は、技術的な指摘をしてみる。

声のトーンを変えてみる、とか、間を変えてみる、とか、動きを変えてみる、とか。

 

そうやって試行錯誤しながら、ふと不安にもなる。こんなふうに自分のイメージへ誘導していってもいいものなんだろうか、と。あまりにも想定内でおさめようとやっきになるのも違うんじゃないか、と思う時がある。役者の演技がこっちの思っているのと違う場合なんかが特にそうだ。

それを修正してもらうべきなのか、それとも可能性に賭けてみるべきなのか。その判断が難しい。

まあそれでも、「自分の思い通りにしたかったら演出をやれよ」って言われたこともあるんで、せっかく演出をやれる状況にある以上は、基本的には私が作りたい世界観へ寄せていこうと思う。

観る方は、波瀾万丈で山あり谷ありのアクションものも好きだったりするんだが、作るとなるとなぜか、微妙で細かい感情の揺らぎを表現したくなる。一瞬の表情、ある瞬間の声音、ふとした動き、そういったもので登場人物たちの感情や人間関係を表現したいと思うのだ。

ストーリー自体はさほど劇的な展開はしないんだけど、感情は劇的に動いている、みたいな。

あー、だからガキダンの芝居が好きなのかもしれない。

 

そういうことがどれくらい伝えられるかわからないけど、なんとかがんばっていこうと思ってる。