芝居は難しいね | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日観た芝居で、「会話する」とはどういうことなのかを改めて考えた。

 

よく、日常を引き合いに出して、「演技なんだけど、日常のように自然に」みたいなことを言ったりする。現実の会話ではもうちょっと相手の言葉を聞いてるよね、みたいな。

でも、一概にそうとも言えないよなあとも思う。

日常の会話でも、人によっては一方的に喋ってたり、相手が言ってることはほぼ聞かないでお互いに自分のことだけ喋ってたり、なんてことはよくある。むしろ日常で「会話」が成立するほうが難しいんじゃないかとすら思ったりする。

でも、日常会話は別に観客がいるわけじゃないから、「そのやりとり不自然だよ」なんていうツッコミは来ない。ただお互いに「なーんか話がかみ合わないなあ」と思って終わり。

 

ところが芝居はそうはいかない。

あえて現実のある側面を取り出して舞台上で再構成しているのが芝居である。

AさんとBさんのやりとりは、あくまでも日常会話を装った「台本のあるやりとり」なのである。そして観客がいる。

観客は透明な膜の向こうから舞台を見ている。舞台上で行動している役者を見ている。

すると急に不自然さが気になってきたりするのだ。

あえて不自然なやりとりをさせるという演出もあるが、そうではなくて、登場人物が心情を告白してたり、相手の言葉に反応したりという場面においては、その不自然さは際だってしまう。

具体的には、「相手の言葉を受け止める間を感じさせない返答」だったり、「相手の様子に影響されないセリフ回し」だったり。そういう瞬間を見てしまうと、「ああ、台本通りにセリフをしゃべっているんだな」とふと我に返ってしまう。そうなるともう、物語世界はひび割れてしまうのである。

 

台本に書いてあるセリフは、他人の言葉である。そのセリフを喋っているのは自分自身ではない。(いや実際に発語しているのは自分なんだけど)

他人が他人の言葉を喋っているのを、あたかも自分自身の思いを言葉にしているように喋らなくてはならないのが役者である。

自分一人の独り言ならまだしも、相手がいて、相手の言葉に反応して次の言葉が出るという場面では、相手の言葉をちゃんと聞いてないのは致命的である。

これなー。音としては聞こえているのよ。もちろん台本も覚えていて、なんなら相手のセリフも覚えてしまっている。つまり、相手が何を言うかが事前にわかってしまっているわけだ。

すると、「会話」というよりも、「相手があのセリフを言い終わったら次は自分の番だ」というようなやりとりになってしまう。

場面によっては相手の言葉尻を食ってしまうくらいの、ハイテンポなやりとりになることもあるが、それだって、その役がそういうふうに思って相手と会話しているからそういうテンポになるだけのことで、やみくもに相手のセリフを食ってしまえばいいわけじゃない。

ほんの一息、相手の言葉を受け止めるだけの間があれば、自分のセリフに少しは血が通う。

 

まあ、言うは易く行うは難し、ではある。

「相手のセリフをちゃんと聞く」というのは、「相手役のセリフを聞き取る」のではなく、相手役がどういう人物としてその言葉を発しているのか、何を伝えたいのか、どういう気持ちなのかを本当に受け止める、ということである。そのためには相手もちゃんと自分の言葉として発信してくれなくてはならないのだが。

 

それを実感するのが稽古なのだ。

最初は紙に書かれたただの文字。それを声に出して読むことで立体的に起こす。

何度も読むことで、セリフの裏側にあるものが見えてきたり、相手とのやりとりが変わってきたりする。

やがて、台本を離し、リアルに身ひとつで相手と向き合う。このときセリフはもうすっかり自分のものになっていなくてはならないのだ。いちいち思い出してるようじゃ間に合わない。

 

何度も何度も同じ場面を稽古すると、すっかりセリフを覚えてしまう。相手のセリフも覚えてしまう。ここがいちばん危険な時期。つるつるとつっかえずにセリフが進行していく。まるで芝居ができているような気持ちになってくる。演出につけられた間や感情表現も定着してくる。

そうしたらパッケージの完成だ。

何も間違っちゃいないけど、たぶんでこぼこのないつるんとしたプラスチックのケースみたいな場面になるだろう。

問題はね。そういうものを観て、観客として満足できるかどうかなのだ。

観客は別にお上手にセリフを覚えているところを見に来るわけじゃない。(中にはそういう人もいるけど)そうじゃなくて、舞台上で繰り広げられる、現実には実現しづらいような人間関係や感情の表出を見に来るのだ。そこに生の感情がなければ、なんにも面白くない。ただお上手にセリフが言えて、たくさんのセリフを覚えられてすごいね、っていうだけだ。

 

きっとここがいちばん難しい。

セリフは入った。段取りも覚えた。さて、というところ。

役になりきる、なんてことはできない。でも、自分がこの役の人だったらどうしただろうか、と考えること。それが大事なのだと学んだ。リアルの私自身ではないが、「もし自分がこの人だったら」きっとこんなふうに行動するだろうな、というところを見つけていくのが稽古なのだ。

 

私は今まで、「常に同じ場面では同じ感情になるようにする」とか「何度でも同じようにセリフを言う、行動することができる」というのが正しいことだと思ってきた。でも、いつもいつも同じ感情になれるわけじゃないんだなということがだんだんわかってきた。

同じようにできないのはダメなんだと思っていたんだけど、最近、いや案外そうでもないのでは?と思うようになってきた。

その時その時の揺らぎに委ねてもいいのかも、と思えるようになってきたのだ。

シーンの意味が変わってしまったり、段取りを狂わせてしまうのはよくないけど、ふとしたセリフのニュアンスが変わることはあるのかもしれない。相手役がそれにちゃんとリアクションしてくれたら、そこに「リアル」が生まれる。

アドリブなんて言わなくても、ニュアンスの差で生まれるその時だけのリアルがあれば、きっと何かお客さんにも伝わるんじゃないかなと思う。

 

アマチュア演劇の場合は、おおむね一回しか観劇しない。その回がすべてなのだ。

だからこそ、ベースは変えずに、でもその都度新しい感覚を生み出せるようにしていきたい。

最近私の周辺ではダブルキャストによる公演が多い。プロの世界で行なわれるダブルキャストはかなり厳しいものがあるようだが、アマチュア演劇の場合は単に出演者が多すぎるから、という理由の方が多いんじゃないかしら。あとは集客の問題と。知り合いが出てる回は観たいよね、ということで、ダブルキャストによる公演はどっちも観ることになったりする。

そうするとどうしても見比べてしまうのだよね。良し悪しというよりは、リアクションの違いを。相手役が変わるとちゃんと会話が成立するということもあったり、座組の違いで演技が違ってきたり。そういうところは面白いなと思う。単純に演じる人によってまったく芝居の雰囲気が変わるということもあるし。

 

なんにしても。

ちゃんと会話にするためには、自分のことだけ考えてちゃいけないのだ。

相手が言ってることをちゃんと受け止める。その上で自分のセリフを言う。セリフを言うというよりは、リアクションする、のほうが正しいのかな。

今週末、それがちゃんと出来たらいいな。できるようにがんばろう。