夢ってなんだろう | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日は劇団かいぞく船の「ドリーム・ファイター」という芝居を観てきました。

高校の学園祭開催3週間前の、実行委員会室での1時間のやりとり。

登場人物のそれぞれが悩みを抱えて(まあそういう時期だよね)、夢について語り合うというお話でした。

脚本がとてもこなれていて自然な会話が心地よかったです。

ちょっと「高校演劇っぽい」ところもあったんですけどね。もともとが高校の演劇部に書き下ろされた作品だったようなのでそれも当然なのかもしれませんが。

 

最近高校生とか若い人と関わることが増えたのでつくづく思うのですが、今の高校生ってけっこうはっきり「夢」を持ってる人が多い印象があります。

将来の目標だったり、進路に関してもきちんと自分で考えている人が多い気がします。

もちろん、お芝居の中にも出てきましたが「夢」が見つけられない人もいると思うんですけど。

それでも、オープンキャンパスがあったり、中高生対象のワークショップや講座があったりするのを見かけると、なんだか隔世の感があります。

いや、私だけだったのかもしれないなあ。

私が高校生のころは、こんなふうに将来についての選択肢がたくさん示されていることはなかったような気がします。

高校受験も中学での成績で決められていたし、大学受験も偏差値やテストの得点で決めていたように思います。

「○○になりたいから」「○○を勉強したいから」という理由で学校を選んでいる人は周囲にはあまりいませんでした。

中学での成績順位が何番だからどこの高校、偏差値や模試の判定がこれだからどこの大学、みたいな選び方。

それがふつうだと思っていました。

お芝居の中で夢を語っている彼女たちを見ていたら、「私にはなにか夢があったのだろうか」と遠い昔を振り返る気持ちになりました。

淡い憧れ、漠然とした希望、みたいなものはあったかもしれないけど、明確に目標にできるような夢はなかったなあと。

それは「夢なんか見てもしょうがない」という暗黙の了解みたいなものがあったからだと思うんですね。

将来こういう仕事がしてみたい、とか、こんなふうになりたい、と夢を語っても、「はいはい、それはただの夢まぼろし。それは置いといてちゃんと現実を見なさいね」と言われてしまう。

それに反発するだけの情熱が私になかったといえばそれまでのことなんですけどね。

反発する前から、反発してどうなる、どうにもなりはしない、という諦めがありました。

 

夢なんかなくても生きてはいけますよそりゃ。なんとなく目の前のことをこなして、くぐり抜けていけばいつの間にか時間は過ぎていきます。そうするしかないのだ、とどこかで思い込んでいたのかもしれません。

35で離婚したとき、50になったとき、初めて「やりたいことをやろう」と思えるようになりました。私がやりたいことってなんだ?と初めてちゃんと考えて、「どうやら演劇らしい」と思ったのです。

小説も書きたかった。子どもの頃からずっと私の心の支えであり、苦しいとき悲しいときにに助けてくれた幾多の小説たち。そういうものを自分でも紡ぎたいと願いましたが、いまだ果たせず。この夢の残骸はたぶんずっとひきずっていくんだと思います。

 

目標にできる「夢」はあったほうが支えになるとは思いますが、がんばって見つけなくてもいいのかなと思います。

なんかね、夢を持つのは怖い、という気持ちもあるんですよ。自分を奮い立たせる軸になるとは思うんですが、叶わなかったら辛いなとも思ってしまうので。どうしても「ダメだったとき」のことを考えてしまうタチなんですね。このへんが逃げなのかなあとも思います。

 

私も、できることなら高校生の時に仲間と夢を語ってみたかったなあ、なんて芝居を観終わってしみじみしてしまいました。