マスク、マスクド、マスキング | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

マスクを外してもいい事例が増えてきているらしい。

屋外で2m以上離れてるとか会話がないとか、屋内でも離れてて会話がない場合とか、学校だと運動する場合とか。

理屈から考えたらまあそうだろうなと思うんだけど(そうでなきゃ、換気の意味がなくなる)、それでもマスクを取るのは怖い。

 

昨日、芝居を観てきたんだが、舞台上の役者さんはマスクをしてなかった。

その分、客席との距離は十分取っていたので、別に不安もなかったし、むしろ顔がちゃんと見えてとても安心した。舞台上でマスクされてると、そういう演出意図である場合以外は不安しかない。

 

でも、日常生活で自分がマスクを取れるかどうかを考えると、ちょっと思考が止まる。

もはや今となっては、感染症対策よりも、「自分の顔が隠れているかどうか」のほうが比重が大きいような気がするのだ。

もちろん「人の目」っていうのもある。

(あら、あの人マスクしてないんだわ)と他人から非難されるのではないか、という恐れは、こすってもとれない汚れのように身のうちに染みついてしまっている。

それに加えて、ここにきて顔面をそのままさらす事に対する恐怖心みたいなものも芽生え初めている。

 

もともと顔面にはコンプレックスがあり、マスク生活以前でも、いつもどこかしら腰が引けたような気持ちを抱えていた。

だから、武装のようなつもりで化粧していたのだ。「美しく装う」という次元ではなく、単なる武装。仮面装着。そういう位置づけ。

それが、マスク必須の生活になって、常に顔の半分以上が覆われている状態が当たり前になってみると、こんなに気持ちが楽になるものか、といささか驚いたものだ。

マスク着用自体の不快さは当然あるにしても、それを補ってあまりある快適さを手に入れてしまったのだ。

 

不思議なもので、舞台に立つときとか、子どもたちの前で読み聞かせや語りをするときは顔をさらしてもさほど苦にはならない。おそらくそういう時は、「人前用」の仮面を身にまとっている感覚なのだと思う。決して「素の私」でそこにいるのではない、という認識。

それゆえに、日常生活においてはよりいっそう、素顔でいることへの抵抗が大きくなっているのである。

 

「状況によってはマスクを取ってもいいですよ」という世の中に移行しつつあるが、ぎりぎりまで「感染症対策なので」とマスクを着用していきたいものだ、とどうしても思ってしまう。

「顔パンツ」とはよく言ったものだ。

他人がいる場所でマスクをつけないことがこんなに重大なことになるなんてね。