昨日。
浅倉秋成さんの「教室がひとりになるまで」を読んだ。
え?異能力もの?と思ったんだけど、読み進めるうちにそれが気にならなくなっていった。
このあたり、宮部みゆきさんの超能力ものを読んだときの感覚に近い。
「それ」は当然あるものとしてストーリーを読み進めていけるのだ。
そして終盤、ミステリーの動機が判明するあたりからとても苦しくなった。
そういう言葉は使われていなかったけどあれは「スクールカースト」や「同調圧力」についての話なのだ。あと、「キラキラと明るいものが絶対正義」という価値観への違和感。
主人公はいわゆる「陽キャ」ではなく、一人を好むタイプの人物だった。
学校というところは昔からずっと、「みんな仲良く」が大好きである。クラスの結束とかも大好き。
そういうものはとても見ていて心地よい。諍いばっかりしてるよりは、仲良くしてるほうがそりゃあ平和ってもんだ。クラスの団結力もあったほうが、先生はやりやすいだろう。
しかしね。学校のクラスというのは、まったく自分が関知していないところで勝手に集められた同じ年齢の集団に過ぎないのだよ。どういう性質の人間がいるのか事前に知りようもない。
年齢差があればまだなんとか機能するかもしれない集団の調整力も、なまじ同年齢なだけに発動しづらい。いきおいその集団の方向性は一部の人間の性質に準拠してしまう。
誰とでも気楽に話ができて、嫌われず、むしろ好感を持ってもらえるような人間。
そんな人間ならなんの疑問も持たずに、「楽しい学生生活を送ろう!」と思えるのだろう。
そしてそういうタイプの人は、他の人も同じように思うものだと単純に信じてる。
だからあの小説のように、「全員が仲良しのクラス」を目指してしまう。
そういうタイプの人間ばっかりが集められているのならいいのだが、学校のクラスってやつは絶対そんなふうにはならない。当然のことながら。
「みんなで仲良く」がしんどい人間もいるのだ。
「人それぞれだよね」でほっといてくれればいいんだけど、「みんな仲良く」タイプの人にはそれが冷たい態度に思えるらしく、どうしてもほっといてくれない。執拗に同調を要請されるし、その要請に従わないと攻撃されてしまう。
そういうあたりを描いたこの作品は、ラストで主人公が本心を絞り出すあたりがとても痛々しかった。
この年になってもまだ、あのころの痛みって忘れられないんだなあと思わず苦笑い。
そのあと、レンタルしていた「何者」を観てしまった。
もうこれはまさしく「観てしまった」としか言いようがない。どうして寝る前にあんなヘビーな映画を観てしまったんだろうとちょっと後悔したくらい。
佐藤健くんが演じた主人公が、とにかくものすごく痛い人物なのだ。わかりすぎて痛い。
ラストはわりと爽やかな感じで終わったんだけど、就活している大学生たちのあからさまなマウント合戦やら、言葉にされないつばぜり合いが、ほんとにしんどかった。
私自身はああいうタイプの就活をしていないので、ほんとのところはどれくらいしんどいものなのかわからないが、話を見聞きする限りではとてつもなくつらくて苦しいもののようだ。私には到底できないと打ちのめされてしまう。
あの映画が2017年の製作で、今が2022年。5年の間に就職戦線がどのように変化したのか知らないのだが、私の息子が大学を出る頃にははたしてどうなっているのか。
一方で我が事のように思いながら同時に、親として子どもを見る目線でも観てしまった。
そうか、息子はこれからあの荒波の中にこぎ出していくのか。
そう思ったらいっそう切なくなった。いろんな意味で。
現実の私はもう若くない。人生のゴールがうっすら見えて来たくらい。
でも心の中には「若いときの私」がまだ居座っていて、青春を描いた作品に触れるとその子がのたうちまわる。
若いときのあれこれはずっと消えないんだろうね。
だからこそ、その時期に傷つくのは致命的なんだな。