旅する心 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

雲はいつも気ままに漂っていきますね。

 

「どこか知らないところへ行きたい」という気持ちが最近なくなってきたような気がします。

若い頃はそれでもあちこちへ出かけたりしていたものですが。

宿泊を伴う旅行もけっこうしていたような記憶がありますが、……いやでも、そうでもなかったかな。

日帰りばっかりだったような(笑)

 

世間では「旅行に行きたい」「素敵なホテルに泊まってみたい」なんていう話がよく聞かれますよね。

ああ、そういうの好きな人がたくさんいるんだなあ、宿泊してまで遠くへ行きたいと思うんだ、旅行に行けないってことがストレスになる人もいるんだ、と、改めて思うのです。

ひるがえって、じゃあ、私はなぜそう思わないんだろうと考えてみました。

行ったことのない場所(行ったことがある場所でも)や、見てみたいと思う場所がないわけじゃないんですよ。外国、はさすがにそこまで思わないですけど、国内でしたら行ってみたいなと思う場所はいくつかあります。

じゃあ、なんで行かないのか、というと、端的に言って「遠い」からなんですね。

家を拠点に考えたとき、その日のうちに(もっというと夜までに)戻ってこられない場所に行くということにどうにも気が乗らないのです。

お泊まりが嫌なのかもなあ。

「どこかへ行く」「何かを見る」「何かを体験する」というのは、特別なイベントという感覚があります。

それに対して、「食事をする」とか「風呂に入る」とか「寝る」というのは「日常」です。私はその「日常」が変化するのが嫌なのかも。

違う場所で食べたことのないものを食べるとか、知らない風呂に入るとか、知らない場所で眠るとか、そういうことがどうにも苦痛である、と。そこは、「いつもと同じ」を死守したいわけです。

 

旅行しなくてはならない状況になったらそこは我慢しますよ。家族旅行とか、ゼミ合宿(笑)とか。どうしても行かなくてはならない場合にまで拒否するほどの苦痛ではありません。

でもやっぱりちょっと日常から1mくらい浮き上がった感覚があるんですね。

それこそが旅行の醍醐味とも言えますが、私はそれを「醍醐味」と感じられないようなのです。

今は、家を拠点とした定住生活がメインの人生だからよけいそう思うのかもしれません。

若い頃、「根無し草」の生き方に憧れたことがあります。毎日が旅。一カ所に定住せずさすらう人生。

それはそれでしがらみがなくていいよなあ、なんて思っていたことがあります。

でもね。よく考えたら、そういう根無し草の人生を歩むとすると、その「根無し草加減」が日常になるわけですよ。毎日寝る場所が変わるのが当たり前、という日常になるのだとしたら、それはそれで適応できそうな気がします。

 

つまり私は、ルーティンを変えたくないってことなんでしょうね。

毎日同じ場所で暮らして同じような手順で生活を送る。それが今の生活。

その中に、「いつもと違う時間の流れ」が入ってくるのが億劫なのでしょう。日帰りならそこまで手順は乱されないわけで。

ちょっとした変化は受け入れるし、楽しむこともできるけど、根底から変わるのは好まない。

そういうことなのかも。

 

近々、宿泊しなくてはならない用事があって、今から億劫なのです。

行ってしまえばそれなりに楽しむと思うんですけどね。行く前がいちばん憂鬱です。はあ。