不安のなだめ方 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

コロナが流行し始めてからずっと、毎日の暮らしの根底に不安が貼りついている。

それは、病気そのものに対する不安だけでなく、変わっていく生活様式、変化するきまり、それを策定しておろしてくる行政機関に対する不安も含んでいる。

さらには、先がまったく見えない状況も不安をあおる。

 

何もせず、じっと息をひそめていればなんとかその不安も飼いならせるが、自分一人で生きているのではないために、他人の都合によってもいろいろ状況が変わる。

毎日判で押したような生活が続くならいいが、突発的に何かの用事が発生するとパニックになる。

 

たとえば息子は来年受験を控えているため、そろそろ事前準備を始めなくてはいけない。

彼自身で完結することならいいが、保護者を必要とする事案の場合はどうしたって私が関わらなくてはいけない。夫はこういうことには一切関与してこない(してきたとしても事情がわからないだろう)。

最終的な金銭問題は夫に伝えなくてはならないけど、それ以外のことはすべて私が判断して行動しなくてはならないのだ。

簡単なことならまだしも、少し大きな問題になると途端に不安の渦に巻き込まれる。

誰にも相談できないので、数日間は不安の渦の中でもみくちゃにされる。

ちなみに、今現在も渦中の人である。

 

心細いとき、不安なとき、ふと誰かにすがりたいような気持ちになってしまう。

誰かに助けてほしいとか、支えてほしいとか、そんな甘い夢を見たくなる。

でも、現実にはそんな人はどこにもいないので、自分でなんとかするしかない。

若いころはただただ不安の渦の中でもがいているだけだったが、最近はようやくそのなだめ方の一端を掴んだような気がしている。

寝ること。お気に入りの小説を読むこと。映画を観ること。漫画を読むこと。

つまり「現実逃避」である。特にフィクションは圧倒的に現実を忘れさせてくれる。読んでいる間、観ている間は確実に別の世界で生きることになるからだ。

 

お金のこともちゃんと考えないといけないので、そろそろ野放図に買いまくることはやめないといけない。

今までに買いためた本をひたすら再読していくことになるだろう。そのために、再読に耐えるものだけ購入してきたのだ。

 

たぶんこの不安はもう消えないだろうと思う。

不安があまりに強くて、もう生きているのをやめたいと思うこともしばしばだ。

でも、自分の手でピリオドを打つのは差支えがありすぎるからなあ。

その時が来るまで、ひたすら耐えるしかないんだろうな。