「婚姻制度」とは | 10月の蝉

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札幌地裁で画期的な判決が出た。

まだまだ確定ではないのだが、「同性婚を認めないのは違憲である」という判決である。

私はこれはとても重要な判決だと思っている。

 

常々思っていることだが、「婚姻制度」というのは人間が勝手に作りだしたルールである。

法律で「結婚」を定義し、その定義を満たしたものを法的に保護する、ということだ。

昔はいろんなことがわかってなかったから、単純に「男」と「女」が一組のつがいとなり、子どもを産み育てていくことを「結婚」と定義した。

生殖は別にそういう制度がなくてもできることではあるが、人間が社会を作って暮らしていくためには、なんらかの縛りが必要になるために、そういうことを考えだしたのだと思っている。

 

そこに「愛情」とか「伝統」とか「継承」という概念を持ちこんだためにおかしなことになってしまったのではなかろうか。

神秘だとかそういうことで一組のつがいを美化してしまったのだ。

とりあえず、いろんなことがわかってなかったし、少数派はいないことにされていたから、長い間そのやり方でやってこれた。

 

しかし、だんだんと時代が進むにつれて、「いろんなこと」がわかってきた。

ヒトにあるのは異性愛だけじゃないということもその一つだ。

おのれの性認識を含め、誰に性愛感情を抱くか、あるいは抱かないか、ということは、実は単純に決められるものではなかったのだ。

 

社会が進むにつれて、多くの人が幸せになりたいと願うようになる。今までは抑圧され我慢するしかなかったことも、そうじゃないんだと声を上げられるようになってきた。

 

同性同士の結びつきを、なぜ法的に認められる「結婚」として扱ってほしいという声があがるようになったのかといえば、つまりは「婚姻制度」が社会で生きていく上での法的保護であるからだ。

法的保護というのはたとえば、遺産相続であるとか、病気治療の際の同意だとか、住むところを手に入れるときの権利とか、そういうものだ。(実際にはもっとたくさんある)

法律で動く世の中だから、法律がからむ場面では法的立場が重要になる。

同性婚が法的に認められていないと、そのカップルは法的保護を受けることができなくなる。

だから、法的に認めるようにしてほしいという要求になるわけだ。実にシンプル。

 

しかしこれがなかなか認められないでいた。

なぜなら、「結婚というのは、愛し合う男女がするものだ」という強固な思い込みが存在しているからだ。

「男」と「女」でなければ「結婚」はあり得ないという考え方が多数派を占めているのだ。

今朝読んだ新聞でも、そういう意見が書かれていた。

もともとそういう主張の新聞だということはわかっていたけれども、やっぱり落胆した。

夫婦別姓と男女平等は別問題だとも書かれていて、もう苦笑いするしかなかった。

 

「結婚」という制度に、変な幻想や本質的ではない装飾をくっつけて考えるのはそろそろやめてもいいんじゃないだろうか。

所詮は人間が考え出したルールに過ぎない。設定したときと状況が変わってきているのだから、実情に合わせてアップデートしていくべきだと思う。

変にこだわってしまうから、「結婚していない男女から生まれた子」という差別的な発想が生まれたり、「血がつながっていない」ということを必要以上に問題視したりしてしまう。

一人一人の人間がそれぞれ幸せに生きていくにはどうすればいいのか、をきちんと考えるようになってほしい。昔作った鋳型にはめ込もうとして、鋳型に入らないものを排除し続けていたら、いずれは行き詰る。

「みんな同じ」は決して理想じゃない。

私とあなたは違う。違ったまま生きていきましょう、というふうになればいいなと思う。