猫と暮らしたい人生だった | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

だじゃれではあるけれども、言わずにはいられないよね、という、2月22日。

2のぞろ目なんてひねくれた言い方をしたくもなるけど、やっぱり猫の日。

 

犬派と猫派で言ったら断然、猫。

犬はねえ。なんだか切なくなるのでつらいのです。あと、単純に怖い。

「小型犬だから怖くないよ~」と言った人もいるけど、なんといいますか、「犬本来」のあり方が怖いので、社交上平気そうな顔はするけど、できればあんまり近づきたくないです。

離れたところでから見る、犬好きの人と犬が仲良くしている光景は微笑ましくてよいなあと思っております。

 

自分の性格を犬と猫で表現するっていう話もありますな。

私はずっと「猫になりたい犬」だと思ってきました。

猫のように気高く、こびず、強く毅然として生きていきたいと思っているのに、ついつい人の顔色を窺ってしまうし、他人の存在に左右されてしまうし、決まりに縛られてしまう。

自由に生きている猫がうらやましくてうらやましくてどうしようもない犬だと思ってきました。

最近ようやく、ほんのちょっと猫的な生き方になってきたような気がしなくもない。

 

幼稚園児くらいのころ、住んでいた家には猫が2匹いました。母娘猫。

母猫のほうは気性が荒く、幼児(私)が近づこうものならシャーっとすごい威嚇をしてくるのでした。絶対触らせてくれなかったなあ。私の父には懐いていたのでうらやましかったのを覚えています。

娘猫の方は対照的にとても穏やかで忍耐力のある猫でした。

幼児の私がむちゃくちゃやるのをじっと我慢してくれていたんですね。私はその猫が大好きだったので、とにかく何かしら構っていたかったのです。

今でも覚えているのは、その猫の両耳に洗濯ばさみをつけたこと。面白いと思ってたのかなあ、当時の私は。その猫はじっと耐えていてくれたのでした。

 

その家には5歳くらいまでしか住んでおらず、その後しばらくは動物を飼うことができない家に住んでいたので、猫との暮らしは途切れていました。

でもずっと、猫と暮らしたいなあという気持ちはありました。ただ現実的じゃなかったんだなあ。

ふわふわと夢のように「いつか、田舎の小さな家で猫をたくさん飼って暮らしたい」なんて思うだけでした。

 

あ、急に思い出した。そういえば犬を飼っていたことがあったのでした。

私が中学生くらいのころだったかなあ。弟が拾ってきたんだかもらってきたんだか。

雑種のコロコロした犬でした。

どうしてあのとき「犬好き」にならなかったのか。

そこに私の本質が隠されていると思うのです。

 

口では「猫と暮らしたい」と言うものの、決してそのための行動は起こさない。

よその猫や、どこかで見かける野良猫はすごくかわいいと思うし、大好きなんですが、実際に身近に置いて世話をしたいとは思わないんですね。

これ、人間の子どもに対しても同じでした。「子ども」はかわいいと思うんですけど、身近にはいてほしくないと思ってしまうのです。自分が生んだ子どもは責任を持って世話しましたけど。

 

私には「ケアする」という機能が欠落してるんだな、と最近気づきました。

ケアしたい、という欲望もない。

離れたところで健やかに自立して生きていてほしい。それをそっと見守るだけでいい。そういう気持ちなのです。

 

そのことが次第にはっきりわかるにつれて、「猫屋敷の猫ばあさんになりたい」という夢は消えていきました。私に猫の世話はできない。昔は野良猫が生きていける世界だったかもしれませんが、今後はどんどんそんなことはできなくなっていきます。人間が管理しなければ生きていけない世界になっているのです。そんな中で、私が猫を飼うことなど許されるはずもない。

 

ということで、今は娘が飼っている猫をかわいがることで満足しています。

たまに家に連れてきてくれるので、そのときに様子を見たり、写真をもらったりね。

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猫はほんとにかわいいです。どの子もみんな等しくかわいい。