春の風が強く吹く | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

家の外でごうごうと不穏な音がしている。

低気圧?のせいなのか、やけに強い風が吹きまくっている。

雲は去って青空から陽光が降り注いでいるが、あまりの強風に光もバラバラに壊れてまき散らされている。

私の思いも砕けてそこらじゅうに漂っている。

 

3月のイベントの申し込みが始まった。(14日から)

人手が足りないとかその他もろもろの事情から、予約は電話1本。

時間も10時から15時という、ちょっと不親切な設定。

1日に6回、「まちあるき」をする。1回100分程度。

古い町並みが残る商店街周辺を、案内人と一緒に散策する。その途中で「昭和39年」の出来事を目撃する、というのがイベントの内容である。

「昭和39年」は、それぞれ短い芝居仕立てになっている。

私もそのうちの一つに出演する。

この芝居を書くために、ずいぶん昭和39年について調べた。

うっすらと残る自分の記憶やら、ネットをさまよって探した文献やら、写真やら。

あるいは、その時代に大人だった人たちからインタビューしたりもした。

そうやって作った芝居だから、観てもらいたいなあとは思っていたのだが。

このご時世だし、どうなんだろう、と思っていた。

ところがふたを開けてみたら、初日から予約がどんどん入っているらしい。

各回10人程度という極小ツアーだからかもしれないけどね。

ありがたいことだ。

 

ワクチンも登場してきて、またこのコロナ禍のフェーズが変わっていくのかもしれないが、植え付けられた恐怖はなかなか消えないんじゃないかとも思う。

コロナ禍以前のように、無防備な感じで人が集まることは難しいような気がする。

それよりも、小さな集まりを考えるほうがいいんじゃないかという気がしている。

 

大規模イベントは、不測の事態が起きやすいし、対応も難しい。

それよりは、目が届く、手が行き届く範囲の、小規模イベントをたくさんやる方向で考えるのもいいかも。

 

 

なあんてことをふわっと思ったりするが、すぐに「いや、別にやらんでもいいか」とも思う。

誰かやればいいのにね、とは思うんだが、別に私がやらなくてもよかろう、と思う。

一日一日年齢を重ねていくという実感がどんどん強くなる今日このごろ。

自分の価値のなさもまた、日に日に強く感じるようになる。

どうしても感覚として理解できないのは、「自分のことをかわいいと自信を持つ」という気持ち。

なんでも、子どものころに親に「あなたはかわいい」と言われて育つと、そういう自己肯定感を持てるんだそうだ。そうすると、他人からの批判に負けそうになっても最後の最後で耐えられるらしい。

私は親からほめてもらった記憶がないし、ましてや「かわいい」なんて言われたことも、態度にあらわしてもらったこともないので、ずっと「私は醜い」と思って生きてきた。それは今でも変わらない。

鏡を見るのが嫌いなのも、おしゃれとかについて考えるのが嫌いなのも、全部そのせいだ。私なんぞがなんかしてどうなる、とどうしても思ってしまう。あんまりいろいろ考えていると死にたくなるので、いつも途中でスイッチを切る。こんなのもう、どうにもならないんだよね。

「自分を愛する」っていう言葉をたまに目にするけど、ほんと、いつも「それはどうやったらできるんですか」と思う。目をそらして、深く考えないようにしないと、生き続けることができなくなるのが現実。

 

 

春は風が強くなる。

光を吹き飛ばして、まき散らして、ごうごうと通りすぎていく。

地球からみたら、10年なんて一瞬なんだろうな。

地震だって、意図があって起きていることではないのだ。右往左往してるのは人間の都合に過ぎないんだよね。

吹き飛ばされる枯れ葉になりたい。