言葉の人 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

いろいろやってみて、私が最も大事にしているもの、重要視するものは「言葉」なのだということを最近つくづく感じている。

言葉。さらにその言葉の意味するもの。

意味のない言葉は単なる音に過ぎなくて、単なる音であるならば「言葉」である必要がない。

 

たとえば、古くから伝えられてきて、すでに意味がすりきれてしまっているようなわらべうたの歌詞。

意味は考えなくてもいいのよ、と先輩方はいうけれども、言葉に意味がないのなら、その音である必要もなくなってしまうのでは?とどうしても思ってしまう。

元の意味があるからこそのその「音」だと思うんだけどなあ。自分が意味を知らずに言葉を発していて、気持ち悪くないんだろうか。それともそういうタイプの人は、音の響きだけを楽しむことができるのだろうか。

 

芝居のセリフもそうだ。意味が取れないととたんに興味が失せる。

演出家によっては、セリフに意味をもたせなくてもいいという主義の人もいるらしい。

セリフを音としてとらえる、とでもいうのかな。そういう人が演出する舞台は、声は聞こえるけど意味が伝わりにくい(セリフを歌ってしまうから)。

意味が伝わってこないととたんに眠くなってしまうんだよなあ。催眠効果? 子守歌になってしまう。

 

だからセリフを言うときも、その意味にこだわってしまう。

どういう意味なのか。どういう背景があるのか。どういう流れなのか。どういう感情なのか。

そこを突き詰めて納得していかないと気が済まないのである。

これは、時に細部にこだわりすぎて全体を見失うという欠点も持っているので、加減が難しい。

「だいたいでいいよ」とか「雰囲気で」って言われるのがいちばん困るなあ。いろいろ検証した結果の雰囲気ならまだしも、深追いする時間がないとか、手間を惜しむ感覚で言われるとちょっと萎える。

 

歌もそうなんだよな。

歌詞が聞き取れるかどうか、というのが日本語の楽曲の場合とても重要なポイント。

最近の歌は、歌詞と譜割りが一致しないものが多くて、一つの音符にたくさん言葉を割り当てたり、言葉のイントネーションや文章の区切りと音の区切りが違うものがたくさんある。そうなると、歌詞が聞き取れなくなってしまって、興味が半減する。いくら歌詞カードにいい歌詞が書いてあっても、歌ってるときに聞き取れなかったらないのと同じ。

ただ、歌の場合は、歌詞がよくてもメロディが好きになれないということもあるから難しい。

昔、サザンオールスターズの桑田さんが「ただの歌詞じゃねえかこんなもん」という本を出してたような気がする。読んだわけじゃないんだけどタイトルが印象的だった。

歌詞とメロディ。歌はその両輪で成り立ってるからなあ。

メロディは好みなんだけど、歌詞が聞き取れなくて残念、という曲はけっこうある。

 

私は、「言わなきゃわからない」と思っている。

以心伝心は、ごくまれにおきる奇跡か、ただの思い込みだと思ってる。

他人が何をどう思っているかなんて、表現してくれなくちゃわからない。読心術は使えない。

時に言葉は心を裏切ることもあるから、100%信用するわけじゃないけど、まずは言葉だと思ってる。

そして、その言葉には「言い方」というものがあるのだ。それが表現ということだと思ってる。

一つの言葉をどのように発音するか、発声するか。そういうことにとてもこだわる。

 

それが正しいかどうか、いいか悪いかはわからない。

私はそうなんだな、ということを最近つくづく感じるようになった。

自分の演劇のスタンスはそこだな、と思う。

私は言葉にこだわりたいのだ。

 

でも、「正しい日本語」だとか「日本語の乱れ」にはあんまり興味がない。

言葉は変わっていくものだからねえ。

「を」の発音なんかもそうだけど、今は「O」って発音するのがどうやら主流らしい。

じゃあ、ローマ字で書くときも「O」って書けばいいのにね。そこはたぶん「WO」なんだよねえ。

元アナウンサーだという人が、「ウォと発音するような日本語の乱れが云々」と言ってるという記事を見てちょっと驚いた。いやいや、最初がウォだから。もうね、こうなってくると何が正しいかなんてわからなくなるよね。日本語には発音記号がない。そういうことを重視してこなかった文化なのだろうと思う。

だったら正しい発音もへったくれもないんだけど。

ちなみに私はいまだに発声練習のときは「wa wi u we wo(わ、ゐ う ゑ を)」と発音してる。

「わいうえお」って言ってるとこも多いなあ。どっちでもいいっちゃあそうなんだけどね。

「ゐ」とか「ゑ」なんて文字は使わなくなってしまったし。

 

こういうことは考えていくときりがない。

最後は「自分の好み」に行きついてしまうのかもしれない。