危うい境界に最後の藁 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

なんだかバタバタと慌ただしい一日の終わりに、ドシンと重い芝居を観てきた。

 

ユニークポイントの「トリガー」

息子による介護だとか、無自覚な世間の偏見や差別とか、いろんな問題が含まれた芝居だった。

重苦しくて、しんどくて、心の中が引っ掻き回されるような話。

 

この世界に答えはない。ただ一つの正解なんてどこにもない。

ほんの小さな行き違い、ちょっと甘い見積もり、些細な見栄やプライド、そういうもので世界は歪んでいく。

 

家族だからとか、家族の問題だから、と思うことでどんどん世界は狭まっていく。

昔は家族でやっていたんだ、というけれども、たぶん昔の年寄りは今より早く死んでいた。

どうしようもない状態になってしまう前に死ぬことができたから、今みたいな介護地獄は存在しなかったんじゃないか。

あるいは、家族だと思ってしまうからこそ行き止まりの路地に入りこんでしまうんじゃないのか。

 

よく、動物の親の献身ぶりをたたえて、「それに引きかえ、人間は」と言いたがる人がいるが、動物の行動をたたえるのなら、もっとほかの面にも目を向けてほしいものだと思う。

人間以外の動物はたぶん、年老いた親の介護はしない。

子育てだって、育てられなければ切り捨てていく。

でもそういうところは見えないのか、「ひきかえ」の例にはもってこない。

人間だから、動物としては無理のある行動もとってしまう。そうして結局追い詰められる。

 

芝居のタイトルになっている「トリガー」、つまり引き金。

引き金となるのは、はたから見たら些細なことだ。なんなら「そんなことが引き金になるなんて信じられない」と思えるようなことだったりする。

最後の藁だって、はた目にはただの1本の藁だ。

でも、その1本の藁が加えられる前に、いったいどれだけの藁が積み重ねられているか。

その積み重ねられた藁は他人からは見えないのだ。

見えないから他人は、「ただの藁1本じゃないか」と非難する。

 

日常の中には、良いとも悪いとも判断のつかないことがたくさんあって、人の数だけ正誤がある。人の数だけ判断がある。人の数だけ行動がある。

考えても答えは出ない。何が良くて何が悪いのか。

あるいは、正誤で判断すること自体が間違ってるのか。

たくさんの問いを突きつけられて、答えが出ないまま帰路についたのであった。