初めて少し未来のことを考える | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

ユーミンの「WANDERERS」の一節に、初めて二人の未来について思った、というような歌詞があります。

今日、ふとそれを思いだしました。

 

先日息子は修学旅行を終えて帰宅しました。

旅行の行先は定番の京都・奈良だったのですが、京都の街がことのほか楽しかったもよう。

「京都の大学っていいな」と言いだしました。

 

今まで彼は勉強するモチベーションがなくて、進学先についても真剣に考えようとする姿勢はありませんでした。まあ、今のレベルで行けるとこでいいや、くらいの感じ。

先のことを考えようにも、なんのとっかかりもなくて想像もできないようでした。

 

それが、修学旅行をきっかけに、小さなとっかかりを見つけたような感じ。

さて、このとっかかりがどのように変化していくものか。

しばらく彼の様子を見守っていこうと思っています。

 

いやあ、それにしても。

息子と話していたら、思いがけず自分の中にくすぶっていた憧れの存在に気がついてしまいました。

「京都で大学生として暮らす」

これ、実は私の憧れだったんですね。

大学受験のころ、ひたすら共通一次の点数と内申書で進学先を探していました。

同級生の中には京都の大学を受ける人が何人かいて、実はものすごくうらやましかったんですよね。

でも、そのうらやましさを顕在化することは、ある意味危険なことでもあったので、私は自分の気持ちに蓋をして見ないふりをしてやり過ごしたのでした。

高校卒業後の、最後の休みのときに、一足先に京都の下宿先に移った同級生の元を訪ねたことがありました。

もうね、ほんとにうらやましかった。すぐ近所に金閣寺とかあるんですよ。特別な観光地じゃなくて、ほんのご近所。そういう環境で大学の4年間を過ごせるということが、どうしようもなくうらやましかったものです。

もしかしたら、息子がそういう人生を歩むことになるかもしれない。そう思っただけでなんだか気分が高揚してしまいました(笑) 取らぬ狸も甚だしいですけどね(/ω\)

 

生きていくというのは、巧妙に隠された地雷原を手探りで歩いていくようなものです。時には巧妙にカムフラージュされた落とし穴もあるかもしれない。いつ何時、どんなことが起こるかわからないのです。

今なんの問題もなく生きて暮らしているとしても、この先なにがあるかわからない。

犯罪の被害者になってしまうかもしれないし、あるいは加害者になってしまうかもしれない。事故に遭うかもしれない。ほんとに、ただ生きているというだけでも非常に「有り難い」ことなんですね。

だから、野放図に未来を夢見るというのはちょっと怖いことでもあります。

 

毎日のようにいろんな事件や事故が報道されます。

不幸にも未来を断たれてしまった人、自分の行為で未来を閉ざしてしまった人、そういう人やその周囲の人がたどる顛末は、うるさいくらいマスコミから流されてきます。

今こうしていられることは、細い細いロープの上を絶妙のバランスでゆらゆらと立っているようなものなのです。いつ足を踏み外して真っ逆さまに落下してしまうかわからない。

私にできるのは、ほんの1mくらい先に目をやることくらいです。

ほんの少し先の未来について考える。その繰り返しで先へ進むしかない。

ずっと胎内巡りをしているようなものかもしれません。

息子は清水寺で胎内巡りを体験してきたと言っていました。そのときの、「目を開けていても何も先が見えない不安」「自分の足元が見えない状態で先へ進まなくてはいけないことへの恐怖」は、かなりくっきり思い出として残っているようです。

私も昔、長野の善光寺でやったことがあるので、彼の気持ちがよくわかりました。

そしてその感覚が、今こうやって生きている状態にとても似ている、ということに改めて気がついたんですね。

 

息子の人生はまだ始まったばかり。胎内巡りのほんのとばぐちみたいなものです。

きっとまだまだこの先いろんなことがあるんだろうなあ。

私にはもうそんなに時間は残ってないと思うと、彼が持つ時間がとてもまぶしいものに思えます。

思いきり、好きなことを、やりたいと思ったことをやってほしい。

なんだか改めてそんなことを考えてしまいました。