やめ方、やめ時 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

物事のやめ時ややめ方がわからない。

どうやって見切りをつけるのか、どうやってそれを伝えたらいいのか、それがわからなくてずるずると続けてしまう、ということがけっこうある。

 

自分の気持ちだけでそれを決めてしまっていいのか、という不安がいつもあって。

だから、誰からもつっこまれない、納得されやすい、大手を振って口にしやすい理由があるときでないとうまくやめられない。

仕事とか習い事とかがそうだし、なんなら恋愛とか結婚なんかもそうなのだ。

恋愛、結婚はまたちょっと違う要素も入ってくるからちょっと横へおいとくが。

習い事なんて、自分の都合で決めればいいことだと、頭ではわかっているんだけど。

いざとなるとなかなか言い出せない。

 

シナリオ教室は結局3年通った。あれはカリキュラムをこなすのにそれくらいかかったからで、一通りカリキュラムをこなした段階で、次へ行くかどうかのところでがんばってやめた。

「がんばって」やめる、なんて変な言い方なんだけど、「どうしてやめるの?」という問いに「もうそれほど熱意を持てなくなったから」とか「このままやっててもどうにもならないような気がするから」という答えだけでは不十分なような気がしていたのだ。

自分の中にも、「こんなことでやめてしまうなんて」という非難の気持ちがあって、もうちょっと我慢してがんばらないとだめなんじゃないかとどこかで思ってしまう。

だからといって、我慢してがんばったからどうにかなるという保証もなく、そこまでしてしがみついていたいというほどの情熱もないのに。

 

「一度始めたことは簡単にやめてはいけない」という考え方が世の中にはあって、それが私の中にも強固に根付いているように思う。

ちょっとやってみてはすぐにやめて、また別のことに手を出す、という行為はあまりよく思われない。

根気がない、すぐに目移りする、飽き性、気まぐれ、わがまま、そんな非難の言葉が私の中にあふれる。だから私は一度始めたことはなるべくやめたくない、と思う。それが高じると、やめることが怖いあまりに新しいことは始めないようにする、というところに行く。

それでもなんにもしないでいることもできなくて、ふっと新しいことを始めてしまう。

それが性に合って楽しく続けられるならいいんだけど、問題は途中でつらくなってしまうことがあるということだ。特に習い事というのは教える人との相性があって、こればっかりはやってみないとわからない。

合わないなあと思いながらも、どうやってやめたらいいのか(というか、やめると伝えたらいいのか)がわからなくて、ぐだぐだと文句を言いながら続けるということになる。

 

いろいろ調べてみると、「自他の境界線」という概念にたどり着く。

私はどうやらその境界線があいまいなようで、「やめる」ということが相手の拒絶につながり、その拒絶が自分にもはね返ってくる気がして気後れしてしまうようだ。

やめたい理由が自分の感情にある場合は特にそれが顕著になる。

「私はこう思っている。こう感じている」ということを正直に相手に告げることが怖くてたまらないのだ。

だから、外的に正当と思われる理由にすがる。それを持ち出したら誰も文句を言わない、というような理由があればいいのだ。ないとき、つまり自分の感情にしか理由がないときは、無理やりにでも外的理由をひねりだす。それはすなわち「うそ」である。

嘘をつくのがすごく下手なくせに、嘘をつかなくてはならなくなる。だから気が重くてなかなか言い出せない。言いだせないけど、気持ちはどんどんつらくなって、結局ぶっちぎって逃げるようなひどいやめ方をしてしまうはめになる。

はたから見てそこまでひどいことにはならなかったとしても、私の気持ちの中ではひどいことになっているので、やめたあとはその関係者に関わることができなくなる。

 

例えばどこかでバイトしていて、そこをやめた後もそのバイト先を訪れる、なんていうことが私にはできない。別に非道なやめ方をしたわけではない場合でも、だ。円満にやめたとしても、やめたあとで顔を出すということができない。なんなら、まだバイトしているときで、休みの日にバイト先に顔を出す、なんてことすらできない。休んでいることに対する罪悪感が強すぎてできないのだ。休むことにすら罪悪感を持つのだから、やめたことに対する罪悪感はそれの比ではない。

 

こういうのは全部、私の中だけの気持ちで、相手は実はなんとも思ってないのだ、ということは頭ではわかっている(つもり)。だから時には、自分の感情に無理やり蓋をして平気なふりをすることもある。

でもそうすると、そのあとでものすごく大きな反動が来て、どっと落ち込んでしまうのだけれど。

 

なんでこんなに「休むこと」や「やめること」に対して罪悪感を持っているのか、自分でもよくわからない。

若いころに、何か新しいことを始めるのに抵抗があったのは、この「休むややめるに対する罪悪感」のせいだった。最近少しできるようになったのは、もうあまり先が長くないと思うようになったからだ。

それでもやっぱり、「やめる」のが難しい。

たかだか宅配の牛乳ですら、なかなかやめると言いだせないでいる。いらないと思うならやめればいいのに。

 

「やめます」というと「なぜ?」と聞かれて引き止められる。その段取りがほんとうに苦痛なのだ。

私だって、他の人に対して同じようなことをしているのにね。

 

ああでも。「先があまり長くないから」が理由になるなら、嫌だと思うことはきちんとやめていかないといけないよね。ただ、「いやだ」という自分の感情を相手に知られたくない、と思ってしまうのだ。

うん。そうだ。自分の感情やホントに思っていることを相手に知られたくない、と思っているんだな。

休むとかやめるっていうことが「否定的なこと」だと思っているから、そういう否定的な感情を相手に知られたくないんだと思う。

 

はあ。もう、自分、めんどくさい(笑)

続けていくだけのモチベーションが保てないなら、やめた方がいいんだよな。

っていうか、もうやめたいのよきっと。

しっかりしないとね。とりあえず1年で区切りをつけよう。うん。