最期はどうするか | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

どんなふうに人生を終えることになるのかは、そのときになってみないとわからないけれど、自分が死んだ後のさまざまな事務的な処理や手続きについては考えておかなくてはいけないんだよなあ、とふと思う。

 

子どもの時からずっと引越しのつきまとう人生だったから、基本的にはいつも「荷物をまとめる」という前提で暮らしていた。

モノを捨てるのが下手で、気が付くと紙袋だのよくわからない置物だのが増えていたのだが、それでも、引っ越すとなればそれを段ボール箱に詰めて運ばなくてはならないので、なんとなく「ひとかたまり」という感じで家の中に存在していた。

 

ところが、今の夫が家を建て、そこに住むようになったら、いきなりタガがはずれた。

「基本的にはもうここから動かないのだ」と思ったら、どんどん物をためるようになってしまったのだ。

芝居を始めて、小道具つくりに廃品を利用するようになったのも、その行為に拍車をかけた。

ちょっと変わった形のもの、きれいな箱、緩衝材などでいろんな小道具を作ることができた。その楽しさにすっかりハマッてしまい、何も作る予定がないときでも、「いつか使えるかもしれない」とあらゆる廃材をため込むようになってしまった。

使っていない部屋に大量に空き箱やらなにやらがつめこまれている。いつ捨ててもいいと思うと逆に「まあ、また今度にしよう」と思ってしまう。

 

それでも、廃材は要するにゴミだから、捨てるときは問題なく処分できるだろう。

それより問題は大量の本と、中学2年のときから延々と書きつづけてきた日記(大学ノート数十冊に及ぶ)。そしてパソコンの中に入っているさまざまな文章や写真である。

このブログだって、いったいどうするのか、考えておかなくてはいけない。

 

エンディングノートを書こうかなあと思ったこともあったのだが、いざノートを広げてみるとあまりにも項目が多く、想像の範囲外の項目もあったりして、何も書けなくなってしまう。

もともと、きちんと計画を立ててその通りに実行する、ということができないのだ。生きてるときですらそうなんだから、死ぬときのことまで考えることなんかできるはずもない。

 

どうしたい、というような強い希望もなくて、考えているうちに「まあ、いいか。なるようになれば」なんて無責任なことを思ってしまう。そういうのって、後に残る人たちに多大な迷惑をかけてしまうのだけれども。

希望くらいは考えておいたほうがいいのかもしれない。

 

人生を振り返ると、ほんとに行き当たりばったりで生きてきてしまって、迷惑をかけた人がたくさんいる。特に娘には負い目があって、常々申し訳ないなあと思っている。こんな私が親だったのに、というか、私みたいなのが親だったからこそなのかもしれないが、ずいぶんしっかりした人間になってくれて、ほんとにありがたいと思っている。

 

3月までは一応予定が入っているが、4月からはなんの予定もない。新年度、いったいどうなっていくのか、どうしていったらいいのか、見当もつかない。

やりたいことをやっていこう、と思うときと、もうおとなしく引っ込んでいた方がいいかもしれないと思うときが交互にやってくる。自分が存在していることが耐えがたいような気持ちになる。

万能の消しゴムがあるなら、それで全部きれいに消してしまいたいと思うときもある。

 

そういうときは、この写真を眺めて、心を慰めよう。

 

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やっぱりいいね、ハシビロコウ。