共感性羞恥 | 10月の蝉

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取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

私は見逃してしまったのだが、昨夜の「怒り新党」で、「共感性羞恥」という言葉が出てきたらしい。

ドラマや、アニメ、映画、さらにはドキュメンタリーまで、とにかく、「登場人物がこれから恥をかくだろうと思われる場面が耐えられない」という心理。

これで悩んでいる人が投稿してきてて、その回答として、「それは共感性羞恥という心理で、日本だと10%くらいの人が該当する」と言ってたらしいのだ。

 

Twitterにはそういう人が多いらしく、「あの感情に名前があったとは!」とか「10%よりもっとたくさんいるような気がするぞ」とか「むしろ、Twitterにはそういう傾向の人が多いんじゃないか」とか、まあいろいろと盛り上がっている。

 

ちなみに私もこの「共感性羞恥」の持ち主だ。

それこそ、「ええっ!? あの感情にちゃんとした名前があったのか!」と思ったクチだ。

我が家では長らく「ザイオンの人」という名称で呼ばれていたこの現象。

 

なぜ「ザイオンの人」というかというと。

以前私が「マトリックス」という映画のDVDを見ていたとき、ザイオンの人たちが攻撃を受けるシーンを見て、手汗びっしょりになって感情移入していたのを見た夫が、私のその状態のことを「ザイオンの人になってるよ(笑)」といったことから端を発している。

私にしてみれば、感情移入、それも負けている方、危険にさらされている方に感情移入しないなんて考えもつかなかったので、最初は何を言われているのかわからなかった。

しかし、夫は、私のようには感情移入しないらしく、「いくらザイオンの人たちが危ない状況にいたって、そこまで怖がったりしないよ」とあっさり言われてしまったのだ。

 

それ以来、私が、何かしら感情移入している状態のことは「ザイオンの人になってる」と表現するようになっていた。

 

たとえば、哀しい場面やうれしい場面で共感して泣いたり笑ったりすることはわりと誰にでもあると思うのだが、いわゆる「どっきり」と呼ばれるような番組や、作劇上の構成で、主人公が恥をかいたり、だまされたりするような場面を見て、いたたまれない気持ちになることは、誰にでもあることではないらしい。

ということを、この「共感性羞恥」という言葉とそれに対する反応で知った。

 

そういえば、息子は「スカッとジャパン」という番組が大好きで、オチがつくと「あー、すっきりした」というし、途中のムカムカさせる場面でもげらげら笑っている。

私にはあれがどうしても耐えられないのだ。

ムカムカさせる場面は、わざとそうやってるのだと頭ではわかっているけれども、暴言を吐いたり、ひどい行動をとったりしている人の姿や、それに困惑している人の姿を見るのがすごくいやなのだ。たとえラストに逆転があったとしても、今度はその逆転されてしまった方に感情移入してしまい、恥ずかしいやらいたたまれないやらで、まったくスカッとしない。

共感性羞恥がある人は、たぶん「スカッとジャパン」は苦手な番組だと思う。

「モニタリング」も苦手だし、その他、誰かをだまして嘲笑うという構成の番組は全部見ていられない。心臓がバクバクしてくるし、胃がムカムカして苦しくなってしまうのだ。

 

人の失敗や恥を自分のことのように感じてしまう、というのがこの「共感性羞恥」のメカニズムなんだそうだ。

私が、ドラマツルギーとしてあげられている「誤解、すれ違い、ケンカからの仲直り」という展開がどうしても好きになれないのはそのせいかもしれない。

ドラマなどで、主人公が誤解されて苦境に陥るという展開がほんとに嫌いで、それが出るともう見るのをやめてしまうくらいなのだが、世間的にはそういう展開が好まれているらしいことを知って、シナリオを書く気力を失ってしまった。

 

ケンカも苦手な状況だし、自分ではない誰かが怒鳴られている状況も苦手だ。

自分のことでもないのに、なんでこんなにつらいんだろうと思っていたが、ちゃんと名前のある症状なのだとわかって、ちょっとほっとしている。

そして、それが少数派である、ということもわかって、かえってよかったと思う。

「私はそういうふうに思ってしまうのだ」というだけのことなのだから。

 

でも、同じ部屋で「スカッとジャパン」が流れている状況はちとしんどいなあ。他のことをしたりして、なるべく見聞きしないようにはしてるんだけど、どうしたって聞こえてしまうからね。

息子が楽しみに見ているので、やめてくれともいいづらい。

「胸キュンスカッと」ですら、前半の「ライバルによるいじめ」的な場面が見ていられないんだもん。でも、世間の大多数の人は、ああいうのが面白い、と思うんだよねえ……。