消化試合 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

これはいったい誰のための行事なんだろう、と思うことがある。

たとえば、地域の運動会。
田舎だと、町内大運動会のお知らせおよび出場のお願いの知らせが秋になると回って来たりする。体育委員に当たってしまうと、出場者確保にかなり苦労すると聞いたし、もちろん体育委員本人の出席は必須で、秋の一日、綱引きだのかけっこだのに駆り出される。
あれがほんとに不思議で。
昔は娯楽が少なかったから、年に一度のお楽しみだったのかもしれない。お弁当を持って、一族総出で大宴会、みたいな。
でも、今はもう、そういう人の方が少なくて、楽しんでいるのはお年寄りの方が多い。
特におじいさんたちは、昼間っから酒が飲めて極楽、みたいな顔をしてる。
出場する羽目になった人や、役員の人たちは、「これも役目だから」と諦めきった顔で、仕事をこなしてる。
ほんと、「運動会という行事を消化するため」だけに一日使ってるんだ。

もう廃止してもいいじゃないの、といつも思うんだけど、でもあれもきっと、心から楽しみにしてる人もいるんだろうなあ。
そして、やめたらやめたで、代わりになるレクリエーションの企画もなくて、じゃあ、「地域でのふれあい」なしでもいいのかと言ったらそういうわけにもいかないわけで。

参加する人の気持ちや、運営する側の苦労を置き去りにしたまま、「予定された行事は必ずこなしていく」という義務感だけが独り歩きする。


今年、私は、市内のとある高校で読み語りをする、という活動に参加した。
私立の高校で、どうも上の方の偉い人の肝いりで始まった活動らしい。
実質男子校であるその高校で、1年の生徒対象に、月に一度読み語りをする。
読み手(あるいは語り手)は、日ごろこの地域で読み聞かせをしている人たちで、わりと高齢の女性ばかりである。その中に入れてもらって、今までに3回、読み語りに行った。
読むものは人それぞれで、昔話を語る人や、ギリシア神話を読む人、戦争についての本を読む人、社会情勢に関する本を読む人、絵本を読む人など、実にさまざまである。

戦争と社会情勢に関するものを好んで取り上げる人は、政治や、原発などの問題について関心が高いようで、非常にアクティブである。「これを伝えなくちゃ」という熱意が、選書を見ても、ひしひしと伝わってくる。
たぶん、「語り部」という意識がとても強いのだろうと思う。
そういう人は、あまり迷いがない。「読みたい本、伝えたいことはいくらもある」と、血気盛んである。

私は、というと、とりあえず「高校生に本を読む」というのが面白そうだなと思って参加したので、特段伝えたいことなどない。
小学生までなら、「本の面白さを知ってほしい。物語の楽しさに触れてほしい」という思いで絵本を選んで読むのだが、さて、男子高校生にはどういう意識で立ち向かえばいいのだろうか。

今日が今年度最後の読み語りの日だった。
私は、松谷みよ子さんの民話を朗読した。「鬼の目玉」というお話。
今日行ったクラスは、運動部に所属している生徒が多いとのことで、朝からみんな眠たそうだった。ま、ほかのクラスも似たようなものなんだけど。高校生は眠いんだよね。
とりあえず、騒ぎ立てたり私語をすることもなく、静かにしていてくれたけど、果たして何人が聞いていたのかなあと思う。
いや、音としては聞こえていたんだろうと思うけど、中身まではどうだったか。
読んでるときにちらっと見たら、何人かは机につっぷしていたような気がする。

時間内に読み終えて退室するときに、生徒たちの顔をざっと見回したんだけど、みんなの退屈そうな、諦めたような、義理は果たしましたよといったような顔を見て、なんだか気の毒になってしまった。

彼らにしてみれば、別に自分たちが望んだ行事ではなく、学校から「この日は読み語りの人が来てくれるから聞くように」と命令されてそれに従っているにすぎない。
学校側は、おそらく、教育的効果を狙っているのだろうとは思う。
でも、教室を出る私の脳裏には「消化試合」の文字が浮かんでいた。

生徒たちは、「聞くように」と言われているから、とりあえず教室にいて大人しくしている。
私は、「そういう時間を設けましたので」ということで教室に出向いて本を読む。
双方で、じっと我慢して義理を果たしている感じが、すごくしたのだ。


他の人は、どんな感じでいるんだろうなあ、と思う。
私の選書がまずいんだろうか。読み方がまずいのかな。
政治的にアクティブな人たちは、そんなことより、自分が伝えたいことをどれだけ伝えられるかの方に関心があるようだった。でも、生徒たちもそういう、リアルタイムもしくは、社会的な話の方が面白いと思うものなのかな。

帰り際、先生とアクティブな人たちが話しているのがちらっと聞こえた。
アクティブA「先生、ついに戦争がはじまりましたね。フランスはあれは戦争だと言ってますよ。大変なことです」
アクティブB「ほんと、いやよね。あたし、日本なんてだ~い嫌い」
先生は、あいまいな受け答えしかしてなかった。

なんだかその人たちはやけに張り切ってて、嬉しそうに見えた。
アクティブBさんは日ごろから、現政権に対して反対の立場をとってる人なので、ことさらのように現政権を批判したいみたいだった。
そのためのネタを仕入れられてうれしくてしょうがないって感じがした。

あの年代の人たち、あるいは、ある特定の政治思想を持った人たちについていけないなと思うのはこういうとき。
読み聞かせをしている人の中には、特定の政治思想や、そういう傾向を持った人がけっこういる。子どもたちに、何かを教える、何かを伝える、という性質上、戦争や社会情勢といった分野は避けられないし、積極的にそういうものを伝えていかなくてはならないと考える人も多い。
伝えると言っても、戦争ではこんなひどい目にあった、とか、こんな事故が、災害が起きて、こんなひどい目にあった、という話がほとんどなんだけども。
でもそれは「伝えていかなくてはいけないこと」なのよね、という。

絵本って、そういうものなのかな。

私は、そういう種類のものは好きではないので、いつも選ばない。
たまに、強制的に読まされる(今度はみんなでこれを読みましょう、という言い方で)こともあるが、そういうときはほんとに苦痛だ。


アクティブな人たちの選書に、なんとなく批判的な目を向けてしまうんだけど、今日の生徒たちの様子を見て、やっぱり自分が間違ってるのかなあと思った。
どうせなら、ビビッドな話題の本を持って来たり、現政権を暗に批判するような内容の話のほうが刺激的なのかもしれない。
あるいは、男の子だから、昔話なんかより、現実的な話の方が興味を持てるということなのかもしれない。

そのあたりは、直接生徒たちに感想を聞いたわけではないのでわからない。
あの「読み語り」の時間を、ほんとはどう思ってるんだろうなあ。
ま、「かったりい」「眠い」「先生が聞けって言うから聞いてるだけ」あたりが正直なところなんじゃないかと思う。


というわけで、消化試合は心が折れるよね、という話でした。