一皮剥けば | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

ふと気まぐれを起こして、女性専用の投稿コーナー?みたいなとこを覗いてしまった。
そんなとこ見てもいいことなんて一つもないことはわかってるのに、時々「怖いもの」「汚いもの」見たさに負けてしまう。

たまたま目についたのが不倫話だった。
奥さん側の話。ダンナさんが浮気して、浮気相手がどーたらこーたら、という、まあよくある話。
こういうのは男女差なのかなあといつも思うんだけど、相手が浮気したときに、最終的には別れないのは女、結局別れちゃうのは男なんだよねえ。もちろん各論は別かもしれんが。
妻がまず怒りの矛先を向けるのって不倫相手の女なのね。
夫にももちろん怒るんだけど、怒りの質が違う。不倫相手の女には致命的な打撃を与えようと必死になるけど、夫に対してはめちゃくちゃ怒ってひどいことをしつつも、別れようとはしないことが多い。
年取ったらいじめのネタにしてやる、なんて、一緒に年取ること前提の発想だもんなあ。
まあ、結婚なんて「相互占有権」の制度だから、自分の占有権が侵害されたら怒るわね。
で、女は侵害してきた相手(つまり不倫相手の女)を追い払おうとするし、男は侵害した当人(つまり妻)を排除しようとするってことなんだろうか。
浮気した当人を「信じられない」と怒りながらも関係を絶たないっていうのは、愛情だけの問題ではないような気もする。

不倫はよくわかりませんです。でも、昔から連綿と続く風習なんだよね。
風習っていうと変な言い方だけどさ。でも、どれだけ禁じられようと非難されようと、不倫する人は後を絶たない。法的な結婚制度がなくても、同時に複数の人と恋愛もしくは肉体関係を結ぶことを人は嫌悪する。嫌悪しながらもやめられないのね。なぞだわ。

嫌悪しながらやめられないことのひとつに「差別」もある。
先日、母に勧められて「橋のない川 住井すゑの生涯」という本を読んだ。

「橋のない川」という大長編小説(第7部まであるという大作)のことを、いったいどれくらいの人が知ってるんだろう。もちろん、部落解放運動やら同和問題に関心のある人は知ってるかもしれないが、そうでない人や、今の若い人なんかは知らないんじゃなかろうか。
それともみんな知ってることなのかな。そのあたりの周知レベルについてはまったく無知なのだが。

それはともかく。
私はこの「橋のない川」を、少なくとも第6部までは読んだことがあるのだ。
別に私自身がそういう問題に興味関心があったわけではなく、なんとなく母に勧められて何気なく手に取った本だった。
後に聞いたところによれば、母自身は子供の頃に身近にそういう人たちがいたり、住んでいた地域のこともあって、通り一遍の情報は持っていたらしい。そして、ある時期この作品が話題になったこともあって、娘の私にも読ませようとしたらしい。
その流れで、何十年もたってから、住井すゑさんの伝記である「橋のない川 住井すゑの生涯」という本も勧めてきたらしいのだ。

「橋のない川」はとりあえず読んだものの、ほとんど頭には残っていない。うっすらと、部落差別の話だ、という情報だけが残っている程度である。
それが今回、伝記を読んだことで、新しく知ったことや、改めて考えたことがたくさんあった。
新しく知ったのは、住井すゑさんという人の生涯であり、改めて考えたのは「差別」ということであった。

なんとなくではあるが、日本では差別がない、という雰囲気がある。
特に、アメリカで昔存在した黒人差別のことを思うと、日本にはそんな、人間を奴隷にして使役するようなひどい差別なんてないよね、と思ってしまう。
でも、そんなのは嘘だ。
日本に黒人差別がなかったのは、黒人がいなかっただけのことで、他の民族、他の人種への差別はずっと存在していた。氏素性で差別することもふつうに行われていたし、障害者や性別による差別だって厳然と存在していた。これらは今だってしっかり残っている。

でも、昔はそういうものは、あってもないように扱われていた。そういうものは「差別」ではなく、自然天然の理だと思われていた。
身分制度は「分相応」という発想になり、性別による差別はあって当然のものとされていた。
障害は、前世の報いであるとされていたから、差別という意識はなかったのだろうと思う。

平成の世になってようやく、少しずつ「それは差別だ」という声をあげられる状況が整ってきたから表面化してきているんじゃなかろうか。

性別による差別(具体的には女性差別)は、同性同士でも起こる。「女の敵は女」ってやつだ。
無意識に男性論理を内包してしまった女性は、同じ女性を男性論理で差別する。男と同じようにできないのは女が劣っているからだ、というわけ。

障害者差別はもっと普通に行われる。
最近よく報道される、視覚障害者に対するさまざまな加害行為は、つまりはそういう障害者の存在を排除したいという願望の現れなんだと思う。

何かで読んだのだが、日本では宗教的な発想から、障害は前世での悪行の報いであると考えられているのだそうだ。
だから、災害や犯罪にあったときに「何も悪いことはしていないのに」という恨み言が真っ先に出てくるんだな。悪いことをしていたらひどい目にあっても仕方ない、とか、悪いことをしたからひどい目にあうのだ、という発想だ。
そこから導き出されるのは当然、「障害があるということは、何かしら悪いことをしているに違いない。だから悪いやつ。排除するべき」という発想である。

そういう前提があるとすれば、そりゃあ、障害者に対する態度が非道なものになるのは当然だ。
そして「何か悪いことをすでにしているはず」という正当化があるから、それを「差別」だと認識することすらない。なんて素敵な論理。


貧乏でもなく、身体的精神的な問題もなく、身内にもなんの問題もない、という極めて順風満帆な人生を送っている人間だけが標準なのだとしたら、そりゃあ、生活保護を受けていたり、身体的精神的に障害があったり、身内に困った人がいたり、子どもが「問題行動」と呼ばれる問題を起こしていたりしたら、眉をひそめられ、石を投げられるだろうと思う。
そして、その行動を「差別」だとはかけらも思わずに生きていけるんだろう。


日本には差別はない。
私は昔は漠然とそんなふうに思っていた。
でも、そんなことはないのだ。日本にだって、厳然として差別は存在する。
心身に関わる障害を持った人を差別し、子どもを差別し、女を差別し、働けない人を差別する。
差別というのは、それぞれの事情を一切考慮しない、ということである。根本的に「それ」であるというだけで、苦情を言われ、貶められ、放置される。対応することすら「贅沢だ」とか「甘やかしている」と非難する。

問題なのは、差別意識の欠如なんだと思う。
自己責任とか、自助努力なんていう言葉でごまかし、責任逃れをしながら、劣っている(と思われている)人たちを排除していこうとする。
そうやって差別し、排除し続けて、その先になにがあるんだろうね。
決して、「選ばれた人たちだけの社会」にはならないと思うけど。
だって、差別意識に気が付かない限り、ありとあらゆることで差別しようとするものなんだから。

私の中にある「差別意識」はなんだろう。
何に対して、誰に対して差別意識を持っているのかな。
そういうことを、ふだんから自覚していかないと、差別はなくならないんじゃないかと思う。
さしあたり、「バカ」に対する差別意識を改善したいと思う。
「バカ」というのは、学校の成績が悪い人のことじゃなくて、反応が鈍い人、要領が悪い人、目先のことしか考えない人、頑固な人、自分勝手な人を指す。
私のこの分類だって、たいがい表面的な判断なので、自分に跳ね返ってくる。浅い判断をしている自分が「バカ」だということになるのだ。
でも、「私は差別なんてしていません」と無自覚に思い込むことだけはしたくない、と思う。